大英帝国の礎を築いた最後の軍人王:ジョージ2世
世界の覇権をめぐる競争の中にあった18世紀のイギリス。世界中の領土を拡張し、内閣や議会のシステムが構築されていった時代に、大英帝国の礎を築いたとされているのがジョージ2世です。
60歳を超えても自ら戦場に立ち、陣頭指揮を執った最後の英国王として名を残しました。ドイツ生まれの王は、有能な王妃や廷臣たちとともに、英国王室の近代化に努めたことで知られています。
父ジョージ1世が築いた「君臨すれども統治せず」というスタイルを受け継ぎながらも、軍人としての気概を失わなかった王です。
ジョージ2世の人生を、功績とともに追ってみましょう。

1744年頃。王冠と王笏を傍らに、戴冠式用のローブをまとって玉座に座るジョージ2世(画像出典:Wikimedia Commons)。
❖ジョージ2世の人生概略
| 1683年 | ドイツのハノーヴァーにて後のジョージ1世の息子として誕生 |
| 1705年 | キャロライン・オブ・アーンズバックと結婚 |
| 1714年 | 父ジョージ1世の即位に伴いイギリスの皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)となる |
| 1727年 | 父王の崩御に伴い英国王として即位 ウェストミンスター寺院の戴冠式でヘンデル作『司祭ザドク』が初めて演奏される |
| 1737年 | ハノーヴァーにゲッティンゲン大学を創設 キャロライン王妃が死去 |
| 1740年 | オーストリア継承戦争勃発 オーストリアのマリア・テレジア女帝を支持 |
| 1743年 | デッティンゲンの戦いでフランスと対峙 英国君主として自ら戦場で軍を率いた最後の事例となる |
| 1745年 | ジャコバイト蜂起 反乱鎮圧後ジョージ2世の地位は盤石となる |
| 1752年 | イギリスにグレゴリオ暦を導入 |
| 1756年 | 七年戦争勃発 ジョージ2世の死後に終結した戦争後、イギリスは世界での覇権を確立 |
| 1757年 | 歴代の英国王が収集してきた貴重な蔵書コレクションを大英博物館に寄贈 |
| 1760年 | ケンジントン宮殿にて76歳で崩御 遺言によりキャロライン王妃の隣に埋葬される |
❖時代背景:内政の充実を背景に世界的な覇権の頂点へ駆け上るイギリス
ハノーヴァー朝2代目のイギリス王ジョージ2世。ドイツ人でありながらイギリス王となったハノーヴァー家は、英語が話せない初代ジョージ1世の時代に国民との距離に苦しみました。
ドイツ生まれのジョージ2世は、父の英国王即位に伴ってイギリスに移住。ドイツなまりの英語を揶揄されながらも、国王としての務めを実直に果たしました。短気なところがあったジョージ2世ですが、賢妻として有名な王妃キャロラインと初代首相ロバート・ウォルポールの巧みな補佐によって国内の政治的安定を築き上げます。
ウォルポールとの二人三脚は、「外国人の王と有能な臣下」として、議会政治と内閣制度を確立させる土壌となりました。王が国政を首相や議会に委ねる立憲君主制の基礎が固まったのは、ジョージ2世の時代です。「君臨すれども統治せず」という近代的な王室のスタイルが、浸透していきました。
またジョージ2世の統治期間は、イギリス産業革命への助走期間でもありました。イギリスは驚異的な経済発展を遂げ、18世紀後半から始まる産業革命の基盤を作り上げました。
そのイギリスの勢いは、海外へと向けられます。ヨーロッパ大陸の王位継承を巡る局地戦は、やがて新大陸やインドを巻き込む地球規模の覇権争いへと拡大していきます。
ジョージ2世は自ら戦場に立ってフランス軍を破り、英国王としての覚悟を見せ、国民の支持を獲得しました。
国内の議会制度の成熟と、世界の覇権をめぐるイギリスの優位が際立つジョージ2世の治世33年。イギリスは列強から一頭地を抜く覇権国家へと、飛躍を遂げていきます。

1719年、皇太子時代のジョージ2世(画像出典:Wikimedia Commons)
❖ジョージ2世の生涯と功績
イギリスの立憲君主制確立に大きな役割を果たしたジョージ2世。
ドイツ生まれでありながらイギリスの王位を継ぎ、大英帝国へと発展する時代を統治しました。
複雑な環境での生い立ちから王妃との関係まで、ジョージ2世の生涯や功績を解説します。

国政において大きな役割を果たしたジョージ2世の王妃キャロライン(画像出典:Wikimedia Commons)
幼少期~少年期:両親の不和と母との別れ
ジョージ2世(当時のドイツ名ゲオルク)は1683年、ドイツのハノーヴァーで生まれました。父である後のジョージ1世(当時はゲオルク・ルートヴィヒ)は、ハノーヴァー公国の若き後継者であり、一家はまだイギリスの王位を継ぐことなど想像もしていない、純粋なドイツの貴族として暮らしていました。
一方イギリスでは、アン女王を最後にスチュアート朝が途絶えようとしていました。カトリック信者を排除したいイギリス議会の意向により、遠縁ながらプロテスタントのハノーヴァー選帝侯ゲオルク(後のジョージ1世)がイギリス王位継承者となります。
父ゲオルク・ルートヴィヒと母ゾフィー・ドロテアの夫婦仲は、結婚当初から冷え切っていました。夫は妻に関心を示さず愛人をつくり、妻もまた別の男性と関係を疑われるようになります。
1694年、不貞を理由に結婚は解消され、ゾフィー・ドロテアはアールデン城に幽閉。以後、彼女が世を去る1726年まで、32年もの間、子どもたちと会うことは許されませんでした。宮廷にあったゾフィー・ドロテアの肖像画もすべて廃棄されたため、今残る彼女の肖像は息子のジョージ2世が隠し持っていたものといわれています。
美しい母をわずか10歳で奪われたジョージ2世は、父ジョージ1世への不信感を募らせるようになりました。父子間の確執は、生涯消えることはありませんでした。

母ゾフィー・ドロテアとジョージ2世、妹のゾフィー(画像出典:Wikimedia Commons)
青年期~皇太子時代:教育支援と軍事的評価の確立
幼くして母を奪われたジョージ2世は、祖母から教育を受けたといわれています。とくに歴史学に興味が深く、ハノーヴァー家をはじめとするドイツ貴族の系図に通暁するようになりました。
1714年、父ジョージ1世の即位に伴い、ジョージ2世は皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)となります。イギリスに渡ったジョージ2世は、妃キャロライン、子どもたちとともにイギリスの王族として生活するようになります。
もともと冷え切っていた父ジョージ1世との不仲は深刻さを増し、1717年以降、ジョージ2世の一家は宮廷を追われ、レスター・ハウスで暮らすようになります。
これは、父による息子の宮廷追放にとどまりませんでした。ジョージ2世が暮らすレスター・ハウスには、後にイギリスの初代首相となるロバート・ウォルポールなどの有力政治家が集まり、ジョージ1世の政策に対抗する野党のような役割を果たすようになったためです。ジョージ2世を中心とした「もうひとつの宮廷」の存在は、イギリスの議会制度の成立に影響を与えたという説もあります。ドイツなまりながら英語が話せたジョージ2世の人気は高く、ジョージ1世が嫉妬したほどでした。
ジョージ1世がハノーヴァー滞在時には、皇太子ジョージが国政を担当。皇太子時代はダブリン大学(トリニティ・カレッジ)の学長を務めました。この経験が、ゲッティンゲン大学創立へとつながることになります。
皇太子となる以前から、ジョージ2世はスペイン継承戦争に参戦するなど、実戦経験を積んでいました。軍人としての才覚は皇太子時代から定評があり、国民からの期待も大きいものがありました。
即位~治世初期:ヘンデルの調べと共に即位、王妃と廷臣の補佐で安定した政権運営
1727年、父ジョージ1世の急死を受け、43歳のジョージ2世はイギリス王として即位。10月22日に行われた戴冠式では、ヘンデルが新たに作曲した『司祭ザドク』をはじめとする4つの戴冠式アンセムが披露されました。『司祭ザドク』は、以後すべての英国王の戴冠式で演奏される伝統となり、今日まで続いています。
治世初期のジョージ2世を支えたのは、初代首相となっていたロバート・ウォルポールと王妃のキャロラインでした。ジョージ2世は即位したとき、自分から離れジョージ1世の側近となっていたウォルポールを解任するつもりでした。しかし有能なウォルポールを惜しんだ王妃キャロラインの仲介で、ウォルポールは政権に残り、その後の政局の安定に大きく寄与することになります。
好悪の感情が激しいジョージ2世でしたが、ウォルポールが推進する政策の秀逸さは理解していました。国王自身が政治の細部に深く関与しないというこの治世のスタイルは、結果的に議会政治の成熟を促し、後の「君臨すれども統治せず」という英国立憲君主制の確立に大きく貢献することになります。
王と廷臣の関係には常にキャロライン王妃が2人を取り持つ形で存在しており、政局の運営は安定していたといわれています。ジョージ2世の統治初期、平和の維持と経済重視の政策によって、イギリスは「ウォルポールの平和」と呼ばれる時期を享受したのです。
聡明なキャロライン王妃は、ジョージ2世が即位してから10年後に、惜しまれながら亡くなりました。ジョージ2世には大きな影響力を持ちながら、自ら国家を動かそうとはしなかったことから、 「王は征服しても、国家までは征服しなかった」と激賞されたキャロライン王妃。ジョージ2世が王妃の死後も王としての道を踏み外さなかったのは、生前のキャロライン王妃の影響が大きかったためといわれています。

キャロライン王妃とともにジョージ2世の統治を支えたロバート・ウォルポール(画像出典:Wikimedia Commons)
治世中期:60歳で自ら軍を率い戦場へ、ハノーヴァー王朝の礎を盤石に
1743年、60歳のジョージ2世はオーストリア継承戦争の最前線で戦うことになりました。自らイギリス・ハノーヴァー・オーストリアの連合軍を率いてドイツの地に立ちます。補給不足から撤退を余儀なくされた連合軍は、撤退路にあったデッティンゲンでフランス軍と激突。ジョージ2世自ら戦闘の指揮を執り、連合軍はフランス軍に勝利しました。
戦いはその後も続きます。
1745年、スチュアート家の王位奪還を目指すジャコバイトの反乱が勃発。ジョージ2世はこの反乱も鎮圧し、ハノーヴァー朝による王位継承の正統性を盤石にしました。内憂外患を乗り越えたジョージ2世が国民に支持され、安定を得たイギリスは繁栄へと向かうことになります。
60歳を超えてなお戦場に立ち続けたジョージ2世は、自ら戦場で軍を率いた最後のイギリス王として歴史に名を刻んだのです。

デッティンゲンの戦いにおけるジョージ2世(画像出典:Wikimedia Commons)
治世後期~晩年:大英帝国の礎を築き、76歳で最愛の妻の傍らに永眠
治世の終盤、ヨーロッパだけでなく世界を巻き込む七年戦争が起こります。
フランスとイギリスは、ヨーロッパ本土だけでなく、植民地としていたインドや北米でも激しく争いました。
1757年、インドでは「プラッシーの戦い」でフランス側を撃破。この勝利によってイギリスはインドにおける支配的な地位を手に入れました。
1759年には、北米のカナダにあったフランスの拠点ケベックをイギリス軍が攻略。これによってカナダもイギリスの手に渡ります。
晩年のジョージ2世は、もはや自ら戦場に出ることはありませんでしたが、王としてこれらの勝利を見届けました。インドとカナダという広大な地域で覇権を確立したことは、後にイギリスが「世界に冠たる大英帝国」と呼ばれるようになる出発点となりました。
1760年10月25日、ジョージ2世はケンジントン宮殿で76歳の生涯を閉じ、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。遺言により、キャロライン王妃の棺に寄り添うように埋葬されたジョージ2世。キャロライン王妃を失ってから23年、再婚することはなく、死後も妻と寄り添っています。
❖ジョージ2世をより深く知るための意外な真実!
軍人王として有名なジョージ2世ですが、親しみやすいエピソードも多数あります。
ジョージ2世をよりよく知るための素顔に迫ってみましょう。
大音楽家ヘンデルとの深い縁
バッハと並び、バロック音楽の巨匠として知られるヘンデル。バッハがドイツから一歩も出なかったのに対し、ヘンデルはヨーロッパ各地を旅し、ロンドンで多くの傑作を創作しました。
文芸には興味がなかったジョージ2世ですが、ヘンデルの音楽を愛し、彼の創作活動を後援しました。
ジョージ2世の戴冠式で演奏された『司祭ザドク』を皮切りに、ヘンデルは黄金期に突入。代表作『メサイア』が生まれたのもこの時代です。
ジョージ2世がデッティンゲンの戦いで勝利した際には、ヘンデルは祝典曲『デッティンゲン・テ・デウム』を作曲。戦場に立った国王の武勇を、音楽で称えました。
オーストリア継承戦争後に、ジョージ2世が企画した花火大会の音楽もヘンデルが担当。このときに作られた名曲『王宮の花火の音楽』は、国王が求めた勇壮なバージョンと、ヘンデル自身が気に入っていた優雅なバージョンがあり、2人の際立つ個性が魅力的です。

オーストリア継承戦争終結後に開催された花火大会の様子。ヘンデルが音楽を担当しました(画像出典:Wikimedia Commons)。
読書嫌いのジョージ2世が残した文化遺産
ドイツ貴族の系図に精通し、数か国語を話したジョージ2世ですが、読書や文芸とは相性が悪かった模様。冗談交じりに「私に本や詩人を持ってくるな」と言い放ったという記録もあるほど、絵に描いたような武骨な軍人肌の王でした。
ところが意外にも、読書嫌いのジョージ2世はイギリスの文化遺産保護に大きな足跡を残しています。1757年、ジョージ2世は歴代の英国王が収集してきた貴重な蔵書コレクション「王立図書館(オールド・ロイヤル・ライブラリー)」を、創設されたばかりの大英博物館へと寄贈。それまで王室のものだった一級の知的財産が、広く国民に開放されることになりました。
このコレクションは現在も、大英図書館の重要な核となっています。
末娘ルイーズが結んだヨーロッパ王室の縁
仲睦まじかったジョージ2世とキャロライン王妃の間には、3男5女が生まれました。
末娘のルイーズはデンマーク・ノルウェーの国王フレデリック5世と結婚。残念ながら27歳の若さで亡くなりますが、彼女が遺した子どもたちの血筋は、現在のヨーロッパのさまざまな王室につながっています。
直系にあたる現デンマーク・ノルウェー王室はもちろん、デンマークの前女王マルグレーテ2世、そしてエリザベス2世の夫君エディンバラ公フィリップも、ルイーズの血を受け継ぐひとりです。
ジョージ2世の血脈は、娘ルイーズを介して、現代のヨーロッパ王室にまで連綿と続いているのです。

ジョージ2世の末娘ルイーズ。彼女の血脈は現在のヨーロッパの王室にまで続いています(画像出典:Wikimedia Commons)。
❖最後に
ハノーヴァー王朝2代目のイギリス王ジョージ2世。軍事に優れていたジョージ2世は、戦場で軍を指揮した最後の英国王として知られています。
無骨な半面、賢明な王妃キャロラインや有能な政治家たちに支えられ、議会政治の成熟と大英帝国の礎を築きました。
政治、文化両面でさまざまな功績を残したジョージ2世は、世界に冠たる大英帝国の礎を築いたといっても過言ではありません。
近代イギリスへの扉を開いたジョージ2世の物語を、ぜひアンティークコインから感じてみてください。