孤立から連帯へ!欧州の平和を模索した“ピースメーカー”:エドワード7世
エドワード7世というと、長い皇太子時代の華やかな暮らしや、社交好きな人物という印象が強いかもしれません。
けれど、59歳で王位に就いてからは、それまでに築いてきた人脈や人付き合いの上手さを外交に生かし、「ピースメーカー」と呼ばれるまでになったんですね。
一見すると遠回りにも見える長い皇太子時代が、その後どのようにつながっていったのか。そんなところにも目を向けながら、たどってみてください。
イギリスが繁栄を極めたヴィクトリア朝。
60年以上の長きにわたり女王として君臨した母ヴィクトリアの後を受けて即位したのは、59歳のエドワード7世でした。
長い皇太子時代、競馬や社交を好み、華やかな女性関係の噂も多かったことから、“放蕩息子”と揶揄されたこともあったエドワード7世。しかし即位後は、優れた外交能力を発揮し、“ピースメーカー”として歴史に名を残しました。
エドワード7世によってイギリスは、ヴィクトリア朝時代に築いた“栄光ある孤立”から、他国との連盟へと舵を切ることに成功。近代化への歩みを進めました。
近代イギリスの礎を築いたエドワード7世の人生をご紹介します。

1901年、59歳で英国王となったエドワード7世の肖像(画像出典:Wikimedia Commons)
❖エドワード7世の人生概略
| 1841年 | ヴィクトリア女王とアルバート公の長男(第2子)としてロンドンのバッキンガム宮殿で誕生 |
| 1860年 | イギリスの王位継承者として北米を訪問、熱烈な歓迎を受ける |
| 1861年 | 父アルバート公死去 |
| 1863年 | デンマーク国王クリスチャン9世の長女アレクサンドラと結婚 |
| 1871年 | 腸チフスにり患、奇跡的に回復し国民のあいだでの人気が高まる |
| 1875年~1876年 | 大規模なインド視察旅行 |
| 1891年 | 賭博スキャンダルに巻き込まれ、近代王族として初めて法廷に証人として出廷 |
| 1901年 | 母ヴィクトリア女王の死に伴い、59歳で英国王として即位 |
| 1902年 | 戴冠式を挙行 |
| 1903年 | パリを訪問し、持ち前の社交術で当初の冷ややかな反応を歓迎ムードへと変える |
| 1904年 | 英仏関係改善の機運が実を結び、英仏協商が締結される |
| 1908年 | 英国王として初めてロシアを訪問、エドワード7世の死後に締結されることになる三国協商の基礎を固める |
| 1910年 | バッキンガム宮殿にて68歳で崩御 |
❖時代背景:ドイツの台頭に揺れる大英帝国、栄光ある孤立から連帯へ
19世紀のイギリスは、ヴィクトリア女王のもとで、7つの海を支配するほどの繁栄を極めます。エドワード7世は、この黄金期のほとんどを皇太子として過ごした人物でした。
19世紀後半、ヴィクトリア女王の治世が60年を超えると、大英帝国の栄光にも陰りが見えてきます。
背景にあったのは、ヨーロッパの勢力図の変化でした。とくに突出していたのは、プロイセン主導で統一を果たしたドイツ帝国です。軍事力や工業力によって急速に国力をつけたドイツは、皇帝ヴィルヘルム2世のもとで海軍の増強に乗り出します。7つの海を支配してきたイギリスにとって、大きな脅威となりました。
特定の国とは同盟を結ばず、独自の立場を保つ「栄光ある孤立」を外交の基本としてきたイギリスも、方針の転換を余儀なくされる時代を迎えます。1901年のヴィクトリア女王の死が、その転換点となりました。
即位前から大陸諸国を訪れ、各国の実力者と個人的な親交を持っていたエドワード7世。その人脈と社交術が、20世紀初頭のイギリスの外交を支えました。即位後もエドワード7世は精力的に各国を訪問、1904年の英仏協商、1907年の英露協商の締結に貢献しています。
“ヨーロッパの祖母”といわれた母ヴィクトリアの時代の孤立主義から脱却し、“ヨーロッパの伯父上”として親しまれた人柄を武器にイギリスを新たな国際秩序へと導いたのがエドワード7世でした。
国内では、貴族院(上院)の権限縮小をめぐる対立が深刻化した時代でもあります。上院と下院の調停に苦慮するさなか、エドワード7世は68歳で崩御しました。
在位期間はおよそ9年と短いものでしたが、進取の気性に富んだ王として歴史にその名を刻んでいます。
ヴィクトリア女王の生涯についてはこちらのコラムを、“女王の夫”として見事にその役割を果たしたアルバート公についてはこちらのコラムをぜひご覧ください。

王妃アレクサンドラによって撮影されたエドワード7世(画像出典:Wikimedia Commons)
❖エドワード7世の生涯と功績
エドワード7世が残した功績について、彼の生涯とともにご紹介します。

1863年に行われたエドワード7世(当時は皇太子)とデンマーク王女アレクサンドラの結婚式(画像出典:Wikimedia Commons)
少年期:過度な期待を背負い、厳格な教育を受ける
1841年、エドワード7世は、ヴィクトリア女王と夫君アルバート公の長男(第2子)として誕生しました。アルバート・エドワードと名付けられた彼は、「バーティ」の愛称で呼ばれていました。
幼い頃から、次代の国王にふさわしい人物となるよう、父アルバート公が設計した英才教育を受けました。最高の教師陣、厳しいカリキュラム、選ばれた学友たちなど、その教育は厳格を極めました。
7歳にして分刻みの学習スケジュールをこなす日々でしたが、本来は快活で人懐こく、スポーツや社交を愛する少年だったようです。

肖像画家として有名なヴィンターハルターが描いた幼いころのエドワード7世(画像出典:Wikimedia Commons)
青年期:若き皇太子としての輝きと、転換点となった父の死
父アルバート公の意向により、エドワード7世は、歴代の英国皇太子として初めて正式に大学で学びました。
1859年にオックスフォード大学、1861年にはケンブリッジ大学に籍を置き、古典学や歴史などを学んでいます。それまで家庭教師による私的教育が主流だった王族の学び方を変える出来事となりました。
19歳の時、イギリス王位継承者として初めて大西洋を渡り、カナダとアメリカを歴訪。行く先々で熱狂的な歓迎を受け、若き皇太子の国際的なデビューは大成功を収めました。
しかし翌1861年、父アルバート公が急死します。
直接の死因は腸チフスとされていますが、夫を深く愛していたヴィクトリア女王は「息子のスキャンダルによる心労が引き金になった」と思い込み、エドワード7世を激しく責めたと伝えられています。実はこの少し前、エドワード7世と女優の醜聞が話題となっており、アルバート公は息子をいさめるために説得へ向かった直後に体調を崩し、そのまま亡くなったためでした。
この一件をきっかけに、母ヴィクトリア女王との関係はしばらく冷え込むこととなります。エドワード7世自身にとっても、皇太子としての自らのあり方と向き合う契機となったといわれています。

国民から規範と仰がれたヴィクトリア女王一家。左から2番目の少年がエドワード7世(画像出典:Wikimedia Commons)。
長い皇太子時代:ヴィクトリア朝の最盛期、外交手腕を磨く
1863年、エドワード7世はデンマーク国王クリスチャン9世の長女アレクサンドラと結婚します。気品ある美貌と優雅な立ち居振る舞いで知られたアレクサンドラは、当時のヨーロッパでは、オーストリアの皇妃エリーザベト(通称シシィ)と並び称される美女。エドワード7世との間には、6人の子女が生まれ、賑やかな家庭を築きました。

1863年にエドワード7世(当時は皇太子)と結婚したデンマーク王女アレクサンドラ(画像出典:Wikimedia Commons)
夫の死の責任が息子にあると感じていたヴィクトリア女王は、皇太子時代のエドワード7世を国政に携わらせようとはしませんでした。しかしエドワード7世は、美食やファッションなどを牽引する存在として社交界で活躍します。体型の変化が顕著になり、ベストの一番下のボタンをはずすようになったのは有名なエピソード。現在は、それが紳士服のマナーとして定着しています。
実は、この時期の英国王室は順風満帆だったわけではありません。
ヴィクトリア朝がイギリス史上最盛期を迎えていた一方、夫アルバート公を亡くした女王は公の場から遠ざかりがちになり、皇太子の自由奔放な振る舞いも重なって、王室への風当たりが強まった時期でもありました。
そうした王室の不人気を一掃したのが、1871年の出来事でした。
エドワード7世も腸チフスにり患、生死の境をさまよいます。ヴィクトリア女王も看病に駆け付けたほどでしたが、エドワード7世は奇跡的に回復。それも、同じ腸チフスで亡くなった父アルバート公の命日に回復したことで、エドワード7世の人気が一気に高まりました。同時に、王室も国民の支持を再び得ることができたのです。
回復後は公務にも精力的に取り組み、1875年から翌年にかけては、英国皇太子として初めて、大規模なインド視察旅行を行いました。
政治の表舞台に立てない立場を逆手に取り、社交の場でヨーロッパ各国の王侯貴族と関係を築いていったエドワード7世。その国際的な人脈は、即位後の外交手腕を支える大きな財産となっていきました。

インド視察中のエドワード7世(画像出典:Wikimedia Commons)
皇太子時代後期:困難を乗り越え円熟のフェーズに
華やかな社交界の中心で活躍していたエドワード7世ですが、いくつかの試練もありました。
1891年、バカラ賭博を巡るトランビー・クロフト事件(※)に巻き込まれ、法廷に証人として立つという異例の事態に。
また翌1892年には、後継者と目されていた長男クラレンス公を若くして失うという深い悲しみも経験しました。
万年皇太子と呼ばれ、母ヴィクトリア女王からは過小評価され続けていたエドワード7世ですが、さまざまな困難を乗り越えつつ、円熟期を迎えました。

旅を愛した皇太子時代のエドワード7世(画像出典:Wikimedia Commons)
9年の治世:「ピースメーカー」として外交で活躍
1901年、母ヴィクトリア女王の崩御により、エドワード7世は59歳で即位しました。
エドワード7世の最大の功績は、数世紀にわたり英国と対立してきたフランスとの関係改善です。
1903年、パリを訪問。
当初は冷ややかだったフランスの世論も、劇場や競馬場に足を運び、市民一人ひとりと気さくに言葉を交わすエドワード7世を見て、次第に親しみを感じるように。両国間に築かれた信頼関係が実を結び、1904年、英仏協商が締結されます。
また、各国の王侯貴族と築いた縁戚関係と語学力を駆使し、ヨーロッパ各地を精力的に歴訪しました。
1907年には英露協商を締結し、長らく緊張関係にあったロシアとの関係も改善へと導きます。翌1908年には英国国王として初めてロシアを公式訪問し、甥にあたるニコライ2世皇帝と会見しました。
台頭するドイツに対抗するために、海軍力増強や軍の近代化を推し進め、国際情勢の変化に備える姿勢も見せています。
ヴィクトリア女王が築いた「栄光ある孤立」から、世界と足並みをそろえる新たなイギリスへと導いた功績は、現代も高く評価されています。

1902年に挙行されたエドワード7世の戴冠式(画像出典:Wikimedia Commons)
治世の終幕:憲法改革の真っただ中で迎えた突然の最期
エドワード7世の治世の終盤、イギリスは大きな政治的危機に見舞われます。
国民から選出された議員からなる下院の法案が、上院(貴族院)で否決され、民主主義の根幹を揺るがす「憲法上の危機」へと発展しました。
エドワード7世はこの難局にあっても、あくまで政治的中立という立憲君主の立場を貫こうと努めます。しかし調停に心を砕くなかで健康を損ない、1910年5月6日、バッキンガム宮殿でその生涯を閉じました。
気さくな人柄と、欧州各地に広がった縁戚関係から“ヨーロッパの伯父上”と慕われたエドワード7世。その死は深く悼まれました。

晩年のエドワード7世(画像出典:Wikimedia Commons)
❖エドワード7世をより深く知るための意外な事実!
親しみやすい人柄で国民の人気を得たエドワード7世。
彼をよく知るための意外な真実をご紹介します。

晩年のエドワード7世が片時も離さないほど愛した女性アリス・ケッペル(画像出典:Wikimedia Commons)
サクス=コバーグ=ゴータ朝の唯一の君主
夫婦別姓のヨーロッパでは、子どもは父の姓を引き継ぎます。
ヴィクトリア女王を最後にハノーヴァー王朝は終わり、女王の夫君アルバート公の名字をとって「サクス=コバーグ=ゴータ朝」となりました。
しかし、1917年、第1次世界大戦中の世論を考え、エドワード7世の息子のジョージ5世が、あまりにドイツ的な響きをもつ「サクス=コバーグ=ゴータ家」から、イギリス的な「ウィンザー家」と改名。
結果、エドワード7世はサクス=コバーグ=ゴータ家の唯一の君主となりました。
最愛の愛人の曾孫は現在のイギリス王妃
生涯、華やかな女性関係で知られたエドワード7世。
美貌の王妃アレクサンドラがいながら、公式の寵姫が存在していました。
エドワード7世が晩年、片時も離さないほど愛したといわれるのが、アリス・ケッペルです。寵姫としての振舞いをよく心得ていたアリスは、宮廷に波風を立たせることなく、王妃とも良好な仲であったといわれています。
アリス・ケッペルはエドワード7世と知り合う前に結婚しており、次女が現英国王妃カミラの祖母です。
王に愛される血脈として、イギリスのマスコミに注目されました。
グルメな王様のウエストは?
若いころのほっそりとしたイメージとは異なり、即位したころのエドワード7世は貫禄たっぷりの体格になっていました。
大変な美食家として知られたエドワード7世、実は即位のころにはウエストが120センチを超えていたといわれています。恰幅の良さという点では、晩年のヴィクトリア女王を彷彿とさせる貫禄でした。
食事は1日5回にもおよび、それぞれの食事で10品を超える料理が並ぶこともあったのだとか。牛肉料理をはじめとした肉料理を好んだといわれ、現代の感覚では立派な「美食王」であったといえそうです。
もっとも、健康の概念が今とは大きく異なった当時、恰幅の良い姿はむしろ権威の象徴として、国民から親しまれていました。
息子のジョージ5世と甥のニコライ2世はまるで双子!
エドワード7世は兄弟が多く、各国の王侯貴族と縁戚関係にありました。また美貌の王妃アレクサンドラの妹はロシア皇妃となっており、社交界では双子のような姉妹として知られていました。
エドワード7世の息子ジョージ5世と、従兄弟にあたるロシア皇帝ニコライ2世は、写真で並ぶと見分けがつかないほどそっくり。
のちにロシア革命で悲劇的な最期を遂げるニコライ2世と、堅実に英国王として職務を全うしたジョージ5世。よく似た顔立ちの二人がたどった対照的な運命には、感慨深いものがあります。

ロシア皇帝ニコライ2世(左)とエドワード7世の息子ジョージ5世(右)は従兄弟でした(画像出典:Wikimedia Commons)。
❖最後に
放蕩息子と呼ばれた青年期から一転、卓越した外交手腕でイギリスに平和をもたらしたエドワード7世。9年という短い治世ながら、近代イギリスの礎を築いた功績は今も色あせません。
気さくな人柄で王室の人気にも貢献したエドワード7世の面影を、ぜひ肖像画が描かれたコインから感じてみてください。
若いころの華やかなイメージと、国王になってからの姿との違いがとても印象に残りました。
政治の中心に立てなかった長い皇太子時代に培った社交性や人脈が、後になって外交の場で生きてくるというのも興味深いですね。
エドワード7世のコインを見るときも、堂々とした肖像の向こうに、各国を飛び回り、人とのつながりを大切にした姿まで少し想像できそうです。
参考文献
森譲『英国王室史話』1986年、大修館書店
中野京子『イギリス王家12の物語』2017年、光文社
Britannica | Edward-VII
HISTORIC UK | King-Edward-VII
novinite | Unveiling the Scandal that Rocked British Royalty
City life | The changing diet of the British Royals