日本人が感じるヨーロッパ史の素朴な疑問~結婚で地図が変わる?夫婦共同統治や王不在

日本人が感じるヨーロッパ史の素朴な疑問~結婚で地図が変わる?夫婦共同統治や王不在

 

スタッフのひとことナビ
A.Harada(コイン歴3年)

今回は、「なぜ結婚で国の形まで変わってしまうのか」という、日本人からすると少し不思議にも感じるヨーロッパ史の感覚に触れていくコラムなんですね。

王と王妃、夫婦共同統治、さらには“王様がその国に住んでいない”という話まで、日本の歴史感覚とは少し違う場面が多く登場しますが、背景を知っていくと、当時の人々にとっては意外と自然なことだったのかもしれません。

コインに刻まれた人物たちも、ただ権威の象徴というより、それぞれ複雑な立場や事情を抱えながら時代を生きていたのだと感じられる内容でした。そんな空気感も含めて、ゆっくり読み進めてみてください。

 

 

地続きであるヨーロッパの歴史をたどると、婚姻政策によって地図が変わってしまった例をいくつか目にすることがあります。正統な血統の維持のため、王侯貴族にとって政略結婚は常識でした。しかし医学が未熟であった時代、伴侶の早逝や子女が育たないといった例は多く、君主の位が別の血統へと移行することは珍しくありませんでした。

男子の跡継ぎがいないため、女性が君主になる例は歴史上いくつか存在します。
女性が国を統治するにあたって、「夫」の存在はどのように位置づけられたのでしょうか。
女性君主の夫として知られる代表的な2人と、「夫婦共同統治」の事例から探ります。

 

 

女性君主の夫という難しい役割

君主を妻に持った男性たちは、伴侶を支えながら、出過ぎた振る舞いを慎むという難しい役をこなす必要がありました。歴史上、この難役をこなした「理想的な夫」として語り継がれる人物が2人います。

 

 

マリア・テレジアの夫 フランツ1世

女性君主であったマリア・テレジアと夫のフランツ1世、息子のヨーゼフ(画像出典:Wikimedia Commons)。

フランス王妃マリー・アントワネットの母として知られるオーストリアの女帝マリア・テレジア。父カール6世には、マリア・テレジアとマリア・アンナという2人の娘しか生まれませんでした。マリア・テレジアは又従兄妹にあたるフランツと結婚します。
サリカ法によって女性は神聖ローマ皇帝になることができなかったため、夫がフランツ1世として皇帝になりました。マリア・テレジアはボヘミアとハンガリーの女王、オーストリアの大公。実質的に君主としての実権を握っていたのは、妻のマリア・テレジアでした。
辣腕を振るう妻マリア・テレジアに比べて、フランツ1世は存在感が薄かったようです。しかし、夫婦仲が非常によかったことでも知られています。多忙な妻に代わってフランツ1世は16人の子どもたちをかわいがり、科学の振興にも力を注ぎました。
フランツ1世の死をマリア・テレジアは深く悲しみ、一生喪服を着ていたと伝えられています。

 

マリア・テレジアとフランツ1世、そして子どもたち(画像出典:Wikimedia Commons)。

 

 

ヴィクトリア女王の夫 アルバート公

ヴィクトリア女王とアルバート公、長女のヴィッキー(後のプロイセン王妃)(画像出典:Wikimedia Commons)。

大英帝国の繁栄の時代に君臨したヴィクトリア女王も、婿として迎えた夫アルバート公と仲睦まじい夫婦として知られています。
ドイツ的で生真面目なアルバート公は、結婚当初、ドイツのスパイ扱いをされるなど苦労しました。しかし、自由主義的な考えのもと妻の女王を支え、理想的な王配(プリンス・コンソート)として国民にも親しまれるようになったといわれています。

 

 

ヨーロッパの新たな歴史を作った「夫婦共同統治」の例

「結婚すれば妻は夫に従属する」という慣習を破り、夫婦が対等な君主として並び立った例があります。歴史のなかでは珍しい夫婦による統治例を紹介します。

 

 

スペイン王国の誕生 イサベル1世とフェルナンド2世

「結婚後は妻は夫に従属する」という慣習を破ったイサベル1世とフェルナンド2世(画像出典:Wikimedia Commons)。

15世紀のイベリア半島は、イスラム勢力、カスティーリャ王国、アラゴン王国、ポルトガル王国によって分けられていました。イスラム勢力を除く3国は、結婚によって縁戚関係にありましたが、イベリア半島に大きな転換をもたらしたのが、1469年に行われたカスティーリャのイサベル王女と、アラゴンのフェルナンド王子の結婚です。

当時からイベリア半島を統一する目的を共有していたといわれる2人は、それぞれの親族の死により、カスティーリャ女王とアラゴン王になりました。これまでの慣習では、結婚すれば夫が王として妻の領地を采配するのが常でしたが、2人はあくまで「対等」であることを主張。むしろ、国力では勝るカスティーリャの女王イサベルが主導権を握る形の結婚生活になりました。2人の肖像が並ぶ貨幣も発行されています。

結婚後の2人は、イベリア半島のイスラム勢力を一掃するため(レコンキスタ)戦場に赴くことが多かったほか、宮廷はカスティーリャ国内を移動するという形をとりました。アラゴンを留守にすることが多かったフェルナンド2世は、親族を代理として据えるという形を作ります。

「スペイン」という統一国家の概念が強まったのは1492年、2人がイスラム勢力をグラナダから追い出したときからです。とはいえ、両王が存命中はあくまで「カスティーリャ王国」と「アラゴン王国」として、それぞれの法律を遵守する「連合国」でした。名実ともに統一国家となったのは、2人の孫のカルロス1世がスペイン王となった時代になります。

スペイン王国の誕生は、「ライバル企業同士のトップの結婚によって、国際的競争力を持つ大きなブランドが登場した」というイメージになります。

 

 

イギリス王室唯一の共同君臨 メアリー2世とウィリアム3世

イギリス王室史上唯一の夫婦共同統治となったメアリー2世とウィリアム3世(画像出典:Wikimedia Commons)。

夫婦が対等な君主として共同統治するという例は、歴史のなかでそれほど多くありません。イギリス王室には、その例がひとつだけ存在します。17世紀にイギリスを統治したメアリー2世とウィリアム3世です。

当時のイギリスは、カトリック勢力と英国国教会の勢力が争っていた時代。カトリックのジェームズ2世の長女として生まれながら、メアリーは英国国教会の教育を受けていたため、国民の要請によって即位。メアリー2世となりました。

当時、すでにメアリーと結婚していたウィリアム(オランダ名はウィレム)は強力な軍事力を背景に、「王配」ではなく「王」となることを主張。妻のメアリーもそれを望んだため、歴史上例を見ない夫婦共同統治が実現しました。ウィリアム3世はオランダ人であったため苦労も多かったようですが、イギリスにさまざまな功績を残したことで知られています。

軍事的才能を発揮して王位を狙うカトリック勢力を破ったほか、ルイ14世時代のフランスとも互角に渡り合い、イギリスの国際的地位の向上に寄与しました。病弱だったメアリー2世に代わり政治的な手腕を振るい、イングランド銀行の創設や王位継承制度を確立。近代国家への礎を築いたのです。

 

メアリー2世とウィリアム3世がデザインされたギニー金貨(画像出典:Wikimedia Commons)。

 

 

結婚によって外国の君主に?王位の掛け持ちまで生まれる理由

直系の子孫が絶えてしまったために、先祖の縁をたどって外国から王を迎えた国も多数あります。言葉も通じない国の君主となり苦労した王も少なくありませんでした。2人の王の例を紹介します。

 

 

フランス生まれのスペイン王フェリペ5世

フランスのルイ14世の孫でありながらスペイン王となったフェリペ5世。スペインに馴染めずうつ病を患ってしまった悲劇の王です(画像出典:Wikimedia Commons)。

親族間の結婚を繰り返したスペインのハプスブルク家は1700年にカルロス2世を最後に終焉を迎えます。
後継を巡るスペイン継承戦争の末、フランスのルイ14世が孫のフィリップをスペインに送り込むことに成功。ルイ14世の王妃はスペイン王女であったため、血統の点では問題がありませんでした。
しかしスペイン王フェリペ5世となったフィリップは故郷フランスへの思いが強く、スペイン宮廷で重いうつ病を患ってしまいます。唯一の慰めは伝説的なカストラート歌手ファリネッリの歌声でした。
62歳で亡くなった際には、スペイン王家の伝統的な墓所エル・エスコリアルを選ばず、治療のために滞在することが多かったラ・グランハ宮殿附属教会への埋葬を遺言に記しました。ハプスブルク家の先例との決別を、死後にまで示したのです。

 

 

英語がわからなかったイギリス王 ジョージ1世

ハノーヴァー選帝侯でありながらイギリス王に迎えられたジョージ1世。英語はほとんど理解できなかったといわれています(画像出典:Wikimedia Commons)。

また、イギリスのハノーヴァー王朝の祖となったジョージ1世も、本人は望んでもいなかったにもかかわらず、血縁によって君主となった例です。曾祖母がイギリス王ジェームズ1世の娘であったという遠い縁による王位継承でした。

ジョージ1世は亡くなるまでほとんど英語がわからず、ハノーヴァーを懐かしみ、即位後も頻繁に里帰りしていました。

一国の王といえども、決して贅沢三昧の幸福な日々ばかりではなかったことが、さまざまなエピソードから伝わってきます。

 

 

王様不在の領土もあった!そのとき国民の反応は?

結婚によって複数の領地を治めることが珍しくなかったヨーロッパの王侯貴族。
当然、君主がすべての領土に常駐するなど無理な話でした。統治下にある国民ならば、王様が自分たちの国にいないというのは、ないがしろにされていると感じそうなイメージがあります。

しかし地続きのヨーロッパでは君主不在は珍しいことではなく、領民たちはその状態に慣れていました。王や君主が変わっても、従来の法律や貨幣制度は守られるのが普通で、領民の生活にはほとんど影響がなかったためです。彼らにとって君主とは、いわゆるその土地のオーナーといった感覚に近いかもしれません。

 

 

総督として活躍した女性たち

各領土には、君主の親族が「総督」として派遣されることが多くありました。
ネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー周辺)では、特にハプスブルク家の女性たちが重要な役割を担いました。マクシミリアン1世の娘マルグリットは優れた外交手腕で知られ、甥のカール5世の幼少期には後見役も兼ねました。

 

ハプスブルク家の一員としてネーデルラント総督となったマクシミリアン1世の娘マルグリット
(画像出典:Wikimedia Commons)。

カール5世の妹マリアも長きにわたってネーデルラントを治め、さらにカール5世の庶子の娘マルゲリータも同地の総督を務めています。3代にわたって女性が総督を歴任したことは、この地域の統治における女性の存在感の大きさを物語っています。

 

神聖ローマ皇帝カール5世の庶子マルゲリータは、異母兄フェリペ2世の要請でネーデルラント総督を務めました(画像出典:Wikimedia Commons)。

3人の女性総督はいずれも有能で、単なる名目上の存在ではなかったことは、歴史家のあいだでも共通した認識となっています。

 

 

副王という制度 ヨーロッパから新大陸へ

王族以外の人物が広大な領土を統治するために用意されたのが「副王(ヴィレイ)」という役職です。スペインの絶対王制下では、ヨーロッパにおける領土や海外植民地を統治するために多数の副王が任命されました。ハプスブルク朝になるとこれが顕著になり、アラゴン、バレンシア、カタルーニャ、サルデーニャ、シチリア、ナポリといった地域の副王がスペイン王によって任命されています。
副王の活躍の舞台はヨーロッパにとどまりませんでした。新大陸への進出が本格化すると、1535年にヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)副王領、1543年にペルー副王領が設置されています。
副王制度は、同じ王権を戴きながらも、各国が独自の体制を維持したまま統治されるという合理的な仕組みでした。

 

ナポリ副王として有名なペドロ・デ・トレド。スペインのサラマンカ出身の名門貴族で、ナポリのインフラ整備や海岸防衛に努めました(画像出典:Wikimedia Commons)。

 

 

最後に

王国や領邦が数多く存在したヨーロッパの歴史は、結婚によって複雑化し、理解が難しい点もあります。こうした歴史の中で生まれたさまざまなコインから、当時の人びとの喜びや悲しみを感じとってみてください。

 

 

スタッフのひとことコメント
Mina Yoshii(コイン歴2年)

ヨーロッパ史の「結婚で地図が変わる」という話も、背景を知ると、単なる政略や権力争いだけでは見えない部分が多いですね。

国をまたいで君主になった人々や、表には出にくい立場で支え続けた王配たちの姿を見ていると、華やかな王室史の裏側に、それぞれの戸惑いや苦労も感じられます。

これまで何気なく見ていた王や女王の肖像コインも、「この人物はどんな土地で、どんな立場で生きていたのだろう」と想像しながら眺めると、また少し違った見え方になりそうですね。

ヨーロッパの複雑な歴史も、コインを通して触れてみると、不思議と人の物語として身近に感じられるのかもしれません。

 

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