事件の影に強い女性あり?百年戦争を巡るエピソードに登場する女性たち
今回は、百年戦争という大きな歴史の裏側で、さまざまなかたちで関わっていた女性たちに目を向けていくコラムなんですね。
出来事そのものはよく知られていても、その流れをたどっていくと、意外なところに女性たちの存在が見えてきます。
一人ひとりの選択や生き方が、少しずつ歴史に影響を与えていたのかもしれないと思うと、また違った興味が湧いてきますよね。
そんな視点を添えながら、ゆっくり読み進めてみてください。
世界史の教科書を読んでいると、百年戦争の主役は戦う男性たち。しかし実は、英仏の歴史的な対立の裏には多くの女性たちの姿がありました。
対立の火種となった女性から、戦場に立った女性など、彼女たちの生き生きとした姿は現代においても色あせていません。
百年戦争をより深く知るためのトリビアとして、女性たちのエピソードをお楽しみください。

英仏間の対立の源を作ったといわれるアリエノール・ダキテーヌ(向かって左側)(画像出典:Wikimedia Commons)。
❖英仏対立の種をまいた英仏の王妃アリエノール・ダキテーヌ
第1次百年戦争は1337年からおよそ1世紀続きました。原因となったのは、それからさかのぼること200年、1137年にフランス王妃となったアリエノール・ダキテーヌという女性の存在です。アリエノールは、フランス王妃となったものの1152年に離婚、1154年にはイングランド王妃となるというドラマチックな人生を送りました。ヨーロッパの歴史を振り回したアリエノール・ダキテーヌとは、どんな女性だったのでしょうか。
彼女の人生を追ってみましょう。

1137年に行われたフランス王ルイ7世とアリエノール・ダキテーヌの結婚式(画像出典:Wikimedia Commons)。
フランス南西部の広大なアキテーヌ領の相続者、フランス王妃へ
アリエノール・ダキテーヌは、1122年ごろ、現在のフランス南西部に広大な領地を持つアキテーヌ公ギヨーム10世の娘として生まれました。
吟遊詩人が集まる文化の中心として栄えたアキテーヌで育ったアリエノールは、享楽的で奔放な公女であったと伝えられています。
1137年にフランス王ルイ7世と結婚し、アリエノールはフランス王妃となりました。
当時のフランスはまだまだ領土も少なかったため、一人娘のアリエノールと結婚することで、フランスとアキテーヌ領は王夫妻のもとで管理されることになったのです。つまりこの結婚で玉の輿に乗ったのは、フランス王ルイ7世のほうでした。
信心深くまじめなルイ7世と享楽派のアリエノールは、結婚当初からうまくいっていませんでした。ルイ7世が十字軍として遠征するのに伴ってアリエノールもアンティオキアに随行しますが、ここで叔父のレーモン・ド・ポワティエと恋愛事件を起こします。歴史家ルネ・グラッセによれば「オリエントの幻惑に彩られた若々しい叔父」であったらしく、まじめな夫ルイ7世をハラハラさせることに。
妻の振舞いが気が気ではないルイ7世はエルサレム攻撃に失敗。フランスに帰国した後、夫妻の関係はさらに悪化し、最終的にアリエノールがルイ7世に愛想をつかして離婚してしまいます。結果、ルイ7世は、広大なアキテーヌ領を失うことになりました。
新郎は11歳年下!アリエノールはイングランド王妃に
1152年、アリエノールは11歳年下のヘンリー・プランタジネットという青年と熱烈な恋に落ち、結婚します。ヘンリーは母からノルマンディー領を、父からアンジュー領を相続した大領主でしたが、アリエノールと結婚してアキテーヌ領を併合したことで、さらに広大な領地を治めることになりました。
結婚の翌年、ヘンリーは母のいとこの譲りを受けてイングランド王ヘンリー2世として即位。アリエノールの離婚と再婚は、フランス王とイングランド王である2人の男性の運命を大きく変えたといっても過言ではありません。そしてこれが、200年後の百年戦争につながることになりました。百年戦争勃発の原因は、イングランドが統治下においていたアキテーヌ領を巡る対立であったからです。
年下の夫や息子たちの死後も生き抜いたアリエノール
30歳で再婚したアリエノールは、ヘンリー2世との間に王子5人と王女3人をもうけました。夫婦仲は円満であったかというと必ずしもそうではありません。原因は、これまたアキテーヌ領です。
アリエノールは、アキテーヌ領をお気に入りの息子リチャード獅子心王に譲るつもりでした。ところが夫のヘンリー2世は、末っ子のジョンがお気に入り。ジョンに継がせようともくろみます。
アキテーヌ領の相続問題でもめた夫婦は、離婚寸前の大げんかを繰り広げます。ヘンリー2世が支配下に置いていた広大な領土は、夫婦間だけではなく息子たちのあいだでも抗争の火種になりました。
イングランド王家のこうした諍いを利用しようと、フランス王フィリップ2世も介入し、ヘンリー2世の権力失墜を狙います。最終的に、すべての子どもたちに背かれたヘンリー2世は失意のうちに亡くなります。アリエノールの大事な息子リチャードも、戦争に明け暮れて戦死。不仲だった末子のジョン王とは最後までうまくいかず、アリエノールは長生きしたものの、晩年は孤独だったようです。
王妃として2つの王国に君臨し、領地と血統をめぐって政治の中心に立ち続けたアリエノール・ダキテーヌ。愛情や家族関係に翻弄されながらも、常に時代を動かす力を持っていた女性です。
アリエノールによる領地と血統は、やがてイングランド王家とフランス王家の対立を深め、ジョン王の玄孫(曾孫の子)であるエドワード3世の時代に、百年戦争として表面化しました。アリエノールの選択と行動は、数世代を経てなお、ヨーロッパの歴史に大きな影響を与え続けたのです。
❖夫エドワード3世を「理想的な騎士」に仕立てた賢婦人フィリッパ・オブ・エノー
日本ではあまり知られていませんが、第1次百年戦争の発端を作ったエドワード3世の王妃フィリッパ・オブ・エノーは、夫に勝るとも劣らない偉大な人物でした。放縦な夫を上手に操作した賢婦人であったフィリッパ。百年戦争にも影響を与え、歴史に残るエピソードの主役にもなりました。

カレーの市民の命乞いをするフィリッパ。この事件によりエドワード3世は「理想的な騎士」と呼ばれるようになったという説があります(画像出典:Wikimedia Commons)。
イングランドの産業発展に寄与し夫とともに戦場に赴いた王妃
1328年、即位してまもない16歳のエドワード3世は2歳年下(一説には1歳年上)の少女と結婚しました。この少女が、オランダのエノー伯の娘フィリッパです。フィリッパは、王妃の名にふさわしい女性でした。
フランドルの織物技術者をイングランドに招き入れたり、石炭採掘を奨励するなど、イングランドの産業の振興は、フィリッパに因るところが大きいといわれています。
百年戦争の最中、フランスと同盟関係にあったスコットランドは、たびたび北からイングランドに侵攻しました。
フィリッパは夫のエドワード3世とともに頻繁に戦場に同行していましたが、このときは本国に残り、スコットランド軍との戦いを前に、全軍を集めて激励の演説を行い、イングランド軍を鼓舞したと伝えられています。
ロダンの傑作「カレーの市民」を生んだ逸話とは
1347年、エドワード3世はフランス北端部のカレーを攻略。カレー包囲戦として知られるこの戦いで勝利を収めました。
イングランドの支配下に入ったカレーの町は、代表の6人をエドワード3世のもとに送り、市民の命乞いをします。エドワード3世は、市民の命を助けるのと引き換えに、代表6人を処刑するつもりでした。
これに「No!」を突き付けたのが、同行していた王妃のフィリッパです。フィリッパは涙ながらに王に6人の命乞いをし、彼らは解放されました。
エピソードの真偽は不明ですが、近代の彫刻家ロダンによる『カレーの市民』はこの逸話から生まれました。絶望に打ちひしがれるカレーの町の代表6人が印象的な彫刻です。この6人は、王妃フィリッパによって命を救われることになるのです。
フィリッパ亡きあと、エドワード3世は愛人に溺れ、最期をみとったのは侍医1人だけでした。
愛人によって晩節を汚したエドワード3世とは対照的に、フィリッパは、戦場では兵を鼓舞し、民に対しては慈悲をもって接した王妃として、人々の記憶に強く刻まれました。エドワード3世が「理想的な騎士王」として語られる背景には、常にフィリッパの存在があったともいえるでしょう。
エドワード3世とフィリッパは、ウェストミンスター寺院で並んで埋葬されています。

19世紀から20世紀にかけて活躍した彫刻家ロダンの傑作『カレーの市民』(画像出典:Adobe Stock)。
❖異端にして聖女?百年戦争に散った少女ジャンヌ・ダルク
百年戦争を語るとき欠かせないのは、神の声を聞いてフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクです。ジャンヌ・ダルクの出現によって、フランスが劣勢だった戦況が激変。シャルル7世の戴冠式が実現されました。
救国の英雄であり、聖女であり、また異端ともされたジャンヌ・ダルクとは、どんな少女だったのでしょうか。

19世紀のフランスの画家アングルが描いたジャンヌ・ダルク(画像出典:Wikimedia Commons)。
農家の娘がフランス軍と国王を救う!
ジャンヌ・ダルクは1412年、フランス東部のドンレミ村の農家の娘として生まれました。幼いころから信仰心が篤く、13歳の時はじめて神の声を聞いたといわれています。
その4年後、ジャンヌ・ダルクは再び「国王を救え」という神のお告げを聞きます。
当時のフランスは、東部のブルゴーニュ公を中心とするブルゴーニュ派と、南フランスの貴族を中心とするアルマニャック派に分かれて内戦状態でした。アルマニャック派を味方につけていたフランス王シャルル7世ですが、イングランド王のフランス王位継承を認める立場をとったブルゴーニュ派に押され、王としての権力は失墜気味でした。
この状況を打破したのが、ジャンヌ・ダルクです。男装したジャンヌ・ダルクは、アルマニャック派の先頭に立ち、オルレアン包囲戦でイングランドとブルゴーニュ派を撃破。勢いに乗ってランスも奪い返し、シャルル7世はランス大聖堂で戴冠式を挙行することができました。
異端者として火刑に、そして聖女として復権
フランスに続いてパリも奪還しようとした国王軍とジャンヌ・ダルクでしたが、これには失敗してしまいます。
ジャンヌ・ダルクはイングランド軍に捕らえられ、一方的な宗教裁判のあげく、火刑に処されました。
宗教裁判で「異端」とされたのは、ジャンヌ・ダルクが教会を通さずに神の声を聞いたと主張した点や、男装して戦場に立った点などが理由です。当時、神の声は教会の聖職者を通してのみ伝えられるとされ、また性別は神が定めたもので、それを侵す行為は許されていなかったためです。
享年19歳。神の声を聞いて故郷を出てから、わずか2年後のことでした。
中世の神秘と残虐さを凝縮したようなジャンヌ・ダルクの人生。実像は謎に包まれたままです。
後世、フランスのナショナリズムの高まりとともに、ナポレオン1世などによって「フランスの英雄」として新たに脚光を浴びたジャンヌ・ダルク。現在はカトリック教会の聖女に認定されています。
一説によれば、オルレアン包囲戦で怪我をしたジャンヌ・ダルクは、痛みと恐怖で涙を流していたのだとか。奇跡の少女と称えられるジャンヌ・ダルクも、その実像は、弱さも持った少女だったのかもしれません。
読み終えてみると、ひとつひとつの出来事の奥に、静かに積み重なってきた人の選択や感情の流れが感じられて、印象が少し変わってきますね。
これまで大きな戦いや王の動きとして捉えていた歴史も、その裏側にいた誰かの決断や想いによって、かたちづくられていたのかもしれません。
次に百年戦争の話に触れるときには、表に見える出来事だけでなく、その背後にいた人たちの存在にも、ふと目が向くようになりそうです。