17歳の少女ジャンヌ・ダルクが活躍!中世から近代への分岐点となった百年戦争

17歳の少女ジャンヌ・ダルクが活躍!中世から近代への分岐点となった百年戦争

 

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S.Mori(コイン歴3年)

百年戦争という名前はよく知られていますが、なぜそこまで長く続き、何を変えた戦いだったのかを、落ち着いて振り返る機会は意外と少ないかもしれません。
王の野心や領土をめぐる思惑、そして時代の流れの中で生まれた人びとの意識――
そんな重なり合う要素が、ゆっくりと形を変えていく様子が見えてきそうです。
全体の流れをたどるつもりで、気負わず読み進めてみてください。

 

 

イングランドとフランスの歴史の大きな転換点となった「百年戦争」。百年戦争は、1337年から1453年、つまり116年にわたり、イングランドとフランスのあいだで断続的に行われた戦争を指します。
フランスの領土と王位継承権を巡って争った百年戦争は、当初はフランス王が捕虜になるなどイングランドの優勢が続きましたが、ジャンヌ・ダルクの登場でフランスが巻き返し、終結に向かいました。
ヨーロッパの勢力図を変えた百年戦争はどのような経緯をたどったのでしょうか。

わかりやすく解説します。

 

 

百年戦争の発端:「フランス王位を我が手に!」と望んだイングランド王エドワード3世

百年戦争が始まった14世紀、ヨーロッパの地図は現代のそれとは大きく異なっていました。当時の王侯貴族の領土は飛び地だらけ。フランスとイングランドはドーバー海峡を挟んでいたとはいえ、国境の概念が曖昧だったのです。

フランスは、アキテーヌ公領をイングランドに支配され、ブルゴーニュ公領やブルターニュ公領などの諸侯に実権を握られ、王権は脆弱でした。そうした状況の中、イングランドのエドワード3世の野心によって百年戦争が勃発しました。

 

息子のエドワード黒太子にアキテーヌ領を与えるエドワード3世(画像出典:Wikimedia Commons

 

 

イングランド王の紋章にフランスを加える

14世紀、イングランドは婚姻政策によってフランスにあるアキテーヌ領を支配下に置いていました。しかし1337年、フランス王フィリップ6世はアキテーヌ領の没収を宣言。イングランド王エドワード3世はこれに反発し、フランスに宣戦布告します。これが百年戦争の始まりでした。

エドワード3世は、アキテーヌ領に執着しただけではなく、フランス王位にも野心を持っていました。なぜなら、エドワード3世の母はフランス王女であったためです。当時のフランス王フィリップ6世もイングランド王エドワード3世も、フィリップ3世の孫。2人は従兄弟という関係でした。

1340年以降、エドワード3世は紋章にフランス王家の百合をデザインするようになり、フランス王位の継承権を主張。フランス王家の百合がデザインされたイングランドの紋章は、実に1801年まで、460年間使われることになったのです。

 

 

良質なブドウの産地アキテーヌ

エドワード3世がアキテーヌ領に固執したのには、経済的な理由がありました。現在も銘醸地とされているボルドーは、アキテーヌ領内にあります。ブドウの栽培が難しかったイングランドにとって、アキテーヌにおける利権はどうしても譲れない重要なものだったのです。

領土問題と王位継承問題に加え、こうした経済的利権を巡って、百年戦争が始まりました。

 

 

序盤から中盤:イングランドの快進撃とフランス王捕虜事件

フランドルやネーデルラントを味方につけたイングランド王エドワード3世は、快進撃を続けます。イングランドが圧倒的な強さを見せた百年戦争の序盤から中盤を解説します。

 

クレシーの戦いに勝利したエドワード3世が、相手の死者数を数える様子(画像出典:Wikimedia Commons

 

 

スロイス沖の海戦とクレシーの戦い

戦争開始当時は、エドワード3世によるフランスへの快進撃が続きました。1340年のスロイス沖の海戦で圧勝。1346年には、イングランド軍がノルマンディーから北上し、クレシーでフランス軍に大打撃を与えています。
クレシーの戦いの主役となったのはロングボウ(長弓)と呼ばれた武器。イングランドの長弓部隊(English Archers)は、ヨーロッパで知られるようになります。またエドワード3世の息子エドワード(ブラックプリンス、あるいは黒太子と呼ばれていました)が大活躍し、騎士道の鑑として後世まで称えられました。

 

 

戦争を直撃した黒死病

イングランドが有利に戦争を進める中、別の敵が現れます。それが黒死病(ペスト)です。
1347年から1351年に猛威を振るった黒死病は、ヨーロッパの人口の3分の1を死に至らしめました。この疫病はイングランドとフランス軍をも直撃し、兵士の数が激減。長期の包囲戦や軍事作戦の遂行が難しい状況になります。

 

 

フランス王捕虜事件

1350年にフランス王フィリップ6世が死去。息子のジャン2世が即位します。ジャン2世は騎士らしい振舞いから「善王」という異名を持っていましたが、武将としての才能はそれほどなかったといわれています。

1356年、ポワティエの戦いでエドワード黒太子に敗れ、王自身が捕虜になってしまいました。イングランドに連行されたジャン2世は、エドワード黒太子により、捕虜でありながら身分にふさわしい待遇で王として遇されたといわれており、中世の騎士道精神を語る一事とされています。

 

 

イングランドのフランス王位放棄とフランス領獲得

王が捕らわれたフランスは絶体絶命の危機に陥りますが、戦争はここで終わりませんでした。エドワード3世は多大な身代金に加え、自らのフランス王位継承権を認めさせようと過酷な条件を突きつけます。しかし、フランス側は王太子シャルル(のちのシャルル5世)が摂政として粘り強く交渉し、優れた外交力を発揮。フランスは決定的な敗北を免れました。

イングランドとフランスは、シャルトル近郊のブレティニーにおいて協議し、カレーの地で和議の調印を行いました。
締結されたブレティニー・カレー条約によって、ジャン2世はいったんフランスに帰国します。その際、イングランドはフランスに対して300万エキュという国家財政に匹敵する身代金を要求。そのうちの60万エキュを先払いしたことでジャン2世は解放されました。残りは分割払いをすることになったものの、完済まではフランスの王族を人質としてイングランドに送るという条項も含まれています。

ジャン2世と入れ替わるように人質としてイングランドに送られたのは、ジャン2世の次男ルイ。しかしルイが逃亡したため、結局ジャン2世が責任を取る形でイングランドに戻り、捕囚中に死去しています。

またフランスは、アキテーヌを中心とするフランス南西部、北部のポンティユーやカレーもイングランドに割譲せざるを得なくなりました。
和平交渉とはいえ、フランスにとっては屈辱的な締結であったことがわかります。

 

 

中盤から後半:フランスの巻き返しとジャンヌ・ダルクの活躍

百年戦争と呼ばれていますが、100年もの間ずっと戦争をしていたわけではありません。ブレティニー・カレー条約以後、1370~1380年代に何回か戦いはあったものの、1415年までイングランドとフランスは休戦状態にありました。イングランドが優勢だった前半戦と異なり、後半はフランスの巻き返しが始まります。
有名なジャンヌ・ダルクが活躍した時代の百年戦争について、解説します。

 

オルレアン包囲戦で活躍するジャンヌ・ダルク(画像出典:Wikimedia Commons

 

 

フランスの内乱とイングランドの賢王ヘンリー5世

フランス王シャルル6世は、1392年ごろから精神を病み、王権は脆弱化が進みます。さらに、王の弟オルレアン公と、ブルゴーニュ公ジャンのあいだで権力抗争が激化。アルマニャック派(国王側)とブルゴーニュ派という2大派閥によって、フランスは不安定な時代を迎えていました。

これに乗じたのが、イングランドのヘンリー5世です。オックスフォード大学で学んだヘンリー5世は、13歳から国政に関与していたほど優れた王でした。
1415年、ヘンリー5世に率いられたイングランド軍は「アジャンクールの戦い」でフランス軍に大勝。「シャルル6世が死んだあとは、ヘンリー5世がフランス王となる」という条項を盛り込んだトロワ条約が締結されます。

 

 

逆転劇に登場したジャンヌ・ダルク

フランスを窮地に陥れたイングランド王ヘンリー5世は、トロワ条約締結の2年後、1422年にあっけなく病没。次いで同年長年の病の末に亡くなったため、フランス王位をめぐる抗争が激しくなりました。1歳にもならないヘンリー5世の息子ヘンリー6世と、廃太子であったシャルル6世の息子シャルル7世が、それぞれフランス王を名乗ります。

膠着状態を打開したのが、「オルレアンの乙女」と呼ばれた17歳のジャンヌ・ダルクでした。神の声を聞いたジャンヌ・ダルクは、シャルル7世の正統性を支持し、男装して国王とアルマニャック派を叱咤激励し、自らも参戦。1429年、オルレアン包囲戦でイングランド軍を撃退しました。
ジャンヌ・ダルクとフランス軍はランスも奪還、この地でようやく、シャルル7世は戴冠式を挙行しました。
しかし、パリ奪還戦に失敗したジャンヌ・ダルクはイングランド軍に捕らえられてしまいます。一方的に宗教裁判にかけられ、「異端者」として火刑に処せられました。

ジャンヌ・ダルクはその後、百年戦争終結後の1456年にシャルル7世によって名誉が回復されました。また1920年には、ローマ教皇庁から聖女に列せられています。

 

 

百年戦争の終結

ジャンヌ・ダルクの活躍で王権の強化に成功したシャルル7世は、1437年に王都のパリを奪還しました。1453年には、イングランドが執着していたアキテーヌ領のボルドーでの戦いに勝利し、百年戦争は終結しました。

 

 

百年戦争によって生まれた国民意識

フランスとイングランドは、百年戦争以前、また百年戦争以後にも、さまざまな形で争っていました。14世紀から15世紀にかけての争いを「百年戦争」と呼ぶのは、これを転換期にして、それぞれの国で国民意識が高まったためです。

 

百年戦争を終結させたカスティヨンの戦い。1453年、ボルドーで行われました(画像出典:Wikimedia Commons)。


 

「フランス人」「イングランド人」の誕生

百年戦争以前のフランス国内には、各地の諸侯の力が強く、住民たちも「ブルゴーニュ人」「ノルマン人」という意識はあっても、「フランス人」という認識は薄かったといわれています。
しかし、イングランド王がフランス王位を主張したことで、「敵はイングランド人」という思いを共有するようになりました。

一方のイングランド王家は、フランス王家との縁戚関係であったことからフランス語が公用語でしたが、百年戦争中から英語を用いるようになります。

それぞれの国で、「フランス人」「イングランド人」という共同意識が生まれた時代。中世から近代へ向かう国家の概念の誕生は、両国の歴史に大きな足跡を残しました。

イングランド(のちのイギリス)とフランスは、百年戦争が終結してから約200年後に、第2次百年戦争に突入します。フランスの王位や領土を争った百年戦争とは異なり、植民地や海上覇権を軸に、多くの国を巻き込んだ戦争が起こることになります。第2次百年戦争を経て、イギリスとフランスは近代国家へと成長していったのです。

 

 

スタッフのひとことコメント
A.Harada(コイン歴3年)

読み終えてみると、この戦争が単なる勝ち負けの物語ではなかったことが、静かに伝わってきますね。
王や英雄の名前の奥に、国という意識が少しずつ形づくられていった過程が感じられます。
次に中世のイングランドやフランスのコインを見るとき、その背景にあった緊張や希望を、ほんの少し想像してみるのも良さそうです。
一枚の中に刻まれた時代の空気が、以前よりも近く感じられるかもしれません。

 

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