結婚によってハプスブルク家に広大な領土をもたらした「美しき姫君」と「狂える王女」
華やかな王家のつながりの裏側には、思いがけない巡り合わせや、ひとりひとりの人生が静かに重なっていることが伝わってきます。
歴史の流れが、個人の選択や運命によって少しずつ形を変えていく様子も印象的です。
そんな視点で、ゆっくりと読み進めてみてください。
「戦争は他国にまかせておけ!幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」という言葉通り、ハプスブルク家は侵略戦争ではなく、結婚政策によって領土を拡張した貴族です。
王侯貴族間の政略結婚が当たり前だった時代、偶然や幸運によって予想もしていなかった領土が転がり込んでくる例は枚挙にいとまがありませんでした。なかでもハプスブルク家は、幸運に恵まれていた貴族です。
後に「陽が沈むことのない帝国」となるスペインは、ハプスブルク家のカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)によって築かれました。ハプスブルク家は、どのようにしてヨーロッパの大国へと成長したのでしょうか。
ハプスブルク家の領土拡張の要因となった2人の女性をご紹介します。
❖ハプスブルク家の領土を拡大させたブルゴーニュ公女マリー
15世紀半ば、政治、通商、文化で高い水準を誇っていた国、それがブルゴーニュ公国です。現在のフランス東部からオランダ、ベルギーに該当する広大な領土を誇ったブルゴーニュ公国は、フランスのヴァロア王家の流れをくむ名門でした。領土を奪いあうという点でフランス王家のライバルでもありました。ブルゴーニュ公国の1人娘マリーの結婚は、周辺大国の利害を踏まえた政略結婚となります。
その結果はどうなったのでしょうか。

「美しき姫君」として慕われたマリー・ド・ブルゴーニュ(画像出典:Wikimedia Commons)。
ブルゴーニュ公国の1人娘マリーを我が家に!フランス王とハプスブルク家の争い
15世紀前半、フィリップ善良公によって善政を享受していたブルゴーニュ公国は、その息子シャルルの時代に転換期を迎えます。賢明だった父フィリップとは異なり、シャルルは「突進公」と呼ばれるほど、無思慮なところがありました。シャルル突進公が目指したのは、北海から地中海にいたるブルゴーニュ公国の領土拡大でした。
シャルル突進公は、神聖ローマ皇帝であったハプスブルク家のフリードリヒ3世の息子、マクシミリアンをマリーの婿にしようと画策。それによって、自分がローマ皇帝になろうとしたのです。しかし、ローマ皇帝位は、従来、7人の選帝侯によって選ばれることになっていたため、さすがのシャルルもこの願望をかなえることはかないませんでした。
一方、フランス王ルイ11世は、ブルゴーニュ公国をフランスと併合させるべく、マリーを嗣子シャルル(後のシャルル8世)の妻にしようともくろみます。
そのようなさなか、1477年にシャルル突進公が死亡。フランス王はマリーを無理やり王太子と結婚させようとしましたが、マリーがこれを拒否。ブルゴーニュ公国の独立を守るために、マクシミリアンに救助を要請しました。
こうして2人は、結婚することになったのです。

仲睦まじかったマクシミリアン1世とマリー・ド・ブルゴーニュ(画像出典:Wikimedia Commons)。
「中世最後の騎士」と「美しき姫君」の結婚
マクシミリアンとマリーは、政略結婚でありながら、非常に仲睦まじかったといわれています。マリーは「美しき姫君」と呼ばれ、ブルゴーニュ公国で非常に愛される存在でした。マクシミリアンも、金髪の美男子であったといわれています。
結婚当時の2人は、互いに相手の母国語も知らず、たどたどしいラテン語でやり取りをしていました。結婚生活の中でマクシミリアンはフランス語やフラマン語を妻から学び、あっという間に習得したといわれています。
2人の結婚に激怒したフランス王ルイ11世は、ブルゴーニュ公国の貴族に金銭を贈り懐柔し、ピカルディやカンブレなどの都市をフランスに併合してしまいます。
マクシミリアンは新妻の公国を守るべく、ギネガテでフランスに応戦。マクシミリアンにとっては初めての本格的な戦いであったにもかかわらず、勇猛果敢な胆力と指揮力を発揮しました。その戦いぶりから、マクシミリアンは「中世最後の騎士」と称えられるようになったのです。
跡継ぎの誕生、そしてマリーの死
文化や経済水準が高いブルゴーニュ公国と、当時はまだ貧しい貴族であったハプスブルク家の結びつきは、家臣のあいだでもさまざまな軋轢を生みました。しかし、マクシミリアンとマリーの結婚が、その後に続く多民族集合国家となるハプスブルク家の礎となったのです。
結婚の翌年、2人の間に息子フィリップが誕生。両親のよいところをとって大変な美男子となったために、フィリップ美公と呼ばれるようになります。
さらに2年後、今度は娘のマルグリットが誕生。
しかし、この幸せは続きませんでした。
1482年、第三子を懐妊していたにもかかわらず、マクシミリアンの狩猟に同行したマリーは落馬し、そのまま亡くなってしまったのです。結婚からわずか4年半の出来事でした。
その後のマクシミリアンと婚姻政策
愛妻マリーの死によって、天国から地獄へと突き落とされたマクシミリアンでしたが、ブルゴーニュ公位を保持するために粘り強く外交や進撃を続けました。
1493年に、マクシミリアンは多額な持参金を目的に、ミラノ公国の公女ビアンカ・マリア・スフォルツァと再婚しますが、前妻マリーへの思いは変わらなかったといわれています。
大事な跡継ぎの息子フィリップはスペイン王女フアナと、娘のマルグリットはスペインの王太子フアンと結婚させます。
この結婚政策は、マクシミリアンの予想を上回る結果となり、ハプスブルク家の領土は飛躍的に拡大することになりました。
❖「陽が沈むことがない帝国」に君臨しながら愛に狂った悲劇の王女フアナ
ハプスブルク家は、スペイン系とオーストリア系の2家によってヨーロッパの歴史を大きく変えました。この躍進は、フィリップ美公とスペイン王女フアナの結婚によってもたらされました。2人の間に生まれた息子が、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)です。
しかしその栄光を築いたフアナは若くして精神の闇に沈み、悲劇の生涯を送りました。

夫フィリップ美公を熱愛し精神を病んだスペイン王女フアナ(画像出典:Wikimedia Commons)。
ハプスブルク家とスペイン王家の二重結婚
マクシミリアンが画策した政略結婚。相手は2人ともスペイン王家の王子と王女でした。
当時のイベリア半島もまた、転換期にありました。
南部にあったカスティーリャ王国の女王イザベルと、北部のアラゴン王国のフェルナンド2世が結婚したことで、スペイン王国という国ができたばかりの時代です。イベリア半島からイスラム勢力を一掃することに熱心だったため、2人はカトリック両王と呼ばれていました。
イザベルとフェルナンド2世というスペイン王夫妻の間に生まれた子どもたちは、ヨーロッパの各王室と結婚しています。長女イザベルはポルトガル王妃、次女のフアナがオーストリア公妃、三女のマリアはポルトガル王妃、四女のカタリナがイングランド王妃(英国名キャサリン)、そしてたった一人の息子フアンが、マクシミリアンの娘マルグリットと結婚したのです。
ところが病弱なフアン王太子は結婚後間もなく死亡。長女イザベルも亡くなっていたため、次女のフアナがスペイン王国の跡継ぎとなります。フアナは精神状態が不安定であったため、フィリップ美公は共同統治者としてスペインを支配下に置こうとしました。そのためフィリップ美公は、フアナの父アラゴン王フェルナンド2世と激しく対立。フィリップ美公はカスティーリャの有力者を味方につけ、フェルナンド2世を屈服させました。
こうしてハプスブルク家は、縁戚となったスペイン王家の不幸によって、スペインの領土を支配下に置くという予期せぬ継承の連鎖の恩恵を受けたのです。
魅力的な王子フィリップを熱愛したフアナ
スペイン王女フアナは、祖母の血を引いて、精神的に不安定な女性でした。ブルゴーニュ公国の享楽的な空気の中で育ったフィリップは、美貌に加えて女性好き。結婚当初は、黒髪の情熱的なフアナと幸せな新婚生活を送りますが、飽きっぽく惚れっぽい彼は数えきれないほどの愛人を作ります。一方、一目で恋に落ちたフアナの愛は変わらず、結婚後、夫の浮気に悩み、ストレスを募らせていきました。

女性にモテモテだったフィリップ美公と彼を熱愛したスペイン王女フアナ(画像出典:Wikimedia Commons)。
それでも、2人の間には2男4女が誕生。長男が、神聖ローマ皇帝でありスペイン王であったカール5世(カルロス1世)、次男がオーストリア大公にしてボヘミアとハンガリーの王となったフェルディナンド1世です。
カスティーリャの女王に、そして夫の死
フアナは、母イザベル女王の死に伴い、カスティーリャの女王となります(アラゴン王国は父が存命していたため)。
厳格なスペインの宮廷に馴染めなかったフィリップ美公は、カスティーリャ王となってからもなかなかブルゴーニュから動こうとしませんでした。しかし、夫がいないフアナはますます不安定な状況となり、女王としての威厳を保つことが難しくなったため、ようやくフィリップ美公もスペインへと赴きます。
しかし、スペインに着いてまもなく疫病にかかり、28歳で早逝してしまいます。当時妊娠中だったフアナのショックは計り知れず、決定的に精神を病み、女王としての統治は不可能となりました。
父フェルディナンド2世によって幽閉されたフアナは、以後40年、「我、女王なり(Yo la reina)」と署名し続けたといわれています。息子カール5世が、「陽の沈むことがない帝国」を築いていた時代、ひっそりと幽閉されていたフアナ。人びとに「狂える王女(La Loca)」と呼ばれながら、女王としての自負を持ち続けました。
当時の王侯貴族にとっては常識だった政略結婚は、ヨーロッパの歴史を変えたといっても過言ではありません。その顕著な例が、ハプスブルク家隆盛の時代に登場した2人の女性であったといえるでしょう。
とくに、同じ「結婚」がきっかけでありながら、その先に広がる景色が大きく異なっていくところに、どこか考えさせられるものがありますね。
コインに刻まれた人物たちも、こうした時代の流れの中で生きていたのだと思うと、見え方が少し変わってきそうです。
次に手に取る一枚も、その背景にある物語を思い浮かべながら眺めてみたくなりますね。