ハノーヴァー王朝の礎を築いた異邦人の王:ジョージ1世
ジョージ1世というと、ドイツから迎えられた「英語を話せない英国王」という少し不思議な印象がありますよね。
けれど、その距離感があったからこそ、有能な人物に政治を任せる流れが生まれ、後のイギリスらしい議会政治へとつながっていったと知ると、とても興味深く感じます。
異国からやってきた一人の王が、どんな時代の転換点に立っていたのか。そんな視点でたどってみてください。
1714年、54歳で英国王となったジョージ1世。
アン女王に跡継ぎがいなかったことから、王位継承法に基づき、ドイツのハノーヴァーから迎えられた王です。
英国王位を継承したものの、ジョージ1世は英語をほとんど解さず、異邦人の王でありつづけました。その在り方が、才能ある人材登用の道を開き、イギリス独自の議会政治の発展へとつながりました。
言葉や文化の壁に阻まれながら、ハノーヴァー王朝の礎を盤石にしたジョージ1世。
その生涯と功績をご紹介します。

英国国王ジョージ1世の肖像画(画像出典:Wikimedia Commons)
❖ジョージ1世の人生概略
| 1660年 | エルンスト・アウグスト(後のハノーヴァー選帝侯)の長男として誕生 |
| 1682年 | 従姉妹のゾフィ・ドロテアと結婚 |
| 1683年 | 長男ジョージ(後のジョージ2世)誕生 |
| 1698年 | 父の後を継ぎハノーヴァー選帝侯となる |
| 1701年 | スペイン継承戦争に参戦し活躍 イギリスの王位継承法により王位継承者となる |
| 1714年 | アン女王の死に伴いジョージ1世として英国王に即位 |
| 1715年 | ジャコバイトの乱を鎮圧 |
| 1717年 | フランス、オランダと三国同盟を締結し欧州の平和に貢献 後援していた音楽家ヘンデルが『水上の音楽』を上演 |
| 1720年 | 南海泡沫事件による金融危機の影響を最小限にとどめる |
| 1721年 | ロバート・ウォルポールを政権の中心に据え、議会政治の発展の後押しをする |
| 1727年 | ハノーヴァーへ向かう帰途、67歳で崩御 |
❖時代背景:絶対王政から議会政治の時代へ
ジョージ1世が生きた17世紀末から18世紀初頭。
それはヨーロッパの政治体制が大きく転換した時代です。フランスではルイ14世が「朕は国家なり」と宣言し、絶対王政の頂点を極めていました。しかしイギリスでは、すでに別の道を歩み始めていました。
1688年の名誉革命(※)によって、イギリスは国王の権力を制限する立憲君主制の基礎を固めます。カトリックの王を追放することで英国国教会の地位が安定し、一方で、王権と議会の力関係が大きく変わったのです。
こうした流れの中で、メアリー2世と妹のアン女王は跡継ぎがないまま亡くなり、54歳のジョージ1世がドイツのハノーヴァーから迎えられました。ジェームズ1世の娘エリザベスの子孫であり、プロテスタントの貴族であったことが理由です。英国王室があらかじめ張り巡らせておいた王位継承のセーフティネットが機能した瞬間でもありました。
英語を話せないジョージ1世を迎え、英国の議会制度は有能な人材を登用し、独自の発展をすることになります。
王朝が変わるという歴史の転換点にあって、イギリスは内憂外患を乗り越えていきました。
まず、1715年には、ジャコバイトの乱が勃発します。
前王朝ステュアート家のカトリック系王位継承者を擁立しようとするジャコバイトが、スコットランドで蜂起した事件です。最終的には政府軍に鎮圧され、反乱軍はフランスへ逃亡。
この事件によってイギリスは、プロテスタント系を王位継承の条件とする原則を改めて確認し、王の婚姻相手もプロテスタントの王侯貴族のみという時代に入りました。
1720年には、「バブル」という言葉のもとになった南海泡沫事件が起こります。
スペイン領南米との貿易独占権を持つ南海会社が株価を不正に吊り上げ、その崩壊が大規模な経済混乱を引き起こした事件です。王族も不正な取引に関わっていたといわれ、王室の威信を傷つける事態にまで発展しました。
この混乱を収拾したロバート・ウォルポールが、1721年に実権を掌握。王の賢明な人事によって、イギリスは国家の危機を乗り越えます。内閣が議会に責任を負う「責任内閣制」が本格的に始動しはじめました。
「王は君臨すれども統治せず」——この言葉が現実のものとなり、イギリス独自の近代的な議会政治の姿がここに確立されたのです。

1718年のジョージ1世の肖像画(画像出典:Wikimedia Commons)
❖ジョージ1世の生涯と功績
ドイツの一領邦の君主から英国王となったジョージ1世。
その異色の経歴は、イギリスの王室や社会に大きな影響を与えました。
ジョージ1世の生涯と功績をご紹介します。

ジョージ1世がこよなく愛したハノーヴァーの町並み(画像出典:Adobe Stock)
少年期~青年期:ドイツ屈指の名門ハノーヴァー家の嫡男として
ジョージ1世(ドイツ名:ゲオルク・ルートヴィヒ)が誕生したのは、1660年5月28日。
神聖ローマ帝国の有力貴族であり、後にハノーヴァー選帝侯となるエルンスト・アウグストの長男として生まれました。
生まれた瞬間から広大な領地を継ぐ最高のエリートとして育てられた彼は、知性あふれる母親ゾフィのもとで、ドイツ人らしい質実剛健な青年へと成長します。母ゾフィは息子について「とても強固な意志を持った少年」と書き記しています。
15歳になると、父親に伴われて仏蘭戦争の戦場へ赴き、実戦を経験。20代にはヨーロッパの命運を分けたウィーン包囲戦に関連する戦争に参戦し、自ら部隊を率いて勇敢に戦いました。
華やかな宮廷生活よりも、狩猟や戦争に備えた鍛錬を愛し、軍人としてのキャリアを重視していたようです。
22歳の時、16歳の従姉妹ゾフィ・ドロテアと結婚。息子ゲオルク・アウグストと、娘ゾフィ・ドロテアが生まれます。息子は後に英国王ジョージ2世となり、娘はプロイセン王妃となり、フリードリヒ大王を生みました。
しかしこの結婚は12年後に破綻。ジョージ1世は妻を幽閉し、生涯会うことはありませんでした。
ハノーヴァー選帝侯時代(1698年~1714年):軍人として盛名をはせる
1698年、ジョージ1世は父の死に伴い、38歳でハノーヴァー選帝侯となります。
ハノーヴァー選帝侯としてのジョージ1世は、華々しさよりも、堅実さで国を統治。外交や軍事によって、ブレーメンなどの領土を拡張しました。
10代のころから軍事教育を受けてきたジョージ1世は、軍の統率者としても優れていました。
1701年から1714年に起こったスペイン継承戦争では、イギリスやオランダとの同盟軍に加わり、フランスのルイ14世を阻止するための戦いで指揮官として参戦。中堅国家の君主ながら、ハノーヴァーは国際的な信用度を高めることになります。

ハノーヴァーのプリンスの時代、20歳ごろのジョージ1世(画像出典:Wikimedia Commons)
英国王として統治前半:反乱の制圧と危機の克服
1714年、54歳のジョージ1世は、アン女王の死に伴い英国王となりました。その船出は、決して穏やかなものではありませんでした。
即位翌年の1715年、前王朝ステュアート家のカトリック系継承者「ジェームズ3世」を担ぎ出そうとするジャコバイト(ステュアート王朝の支持者)が、スコットランドで蜂起します。イギリスの政府軍は反乱軍を制圧し、ハノーヴァー王家の正統性は守られました。
これに伴い、1717年、ジョージ1世はフランスと同盟を結んでいます。カトリックの国フランスがジャコバイトを支援しないようにするための措置のひとつでした。
1720年、今度は経済的な危機がイギリスを襲いました。「バブル」という言葉のもとになった南海泡沫事件です。株の投機ブームに乗って王族も大量に購入していた南海会社は、南海貿易の独占権を持っていました。しかしまったく利益が上がっていないことが判明、文字通り大量の株が「泡沫」と化した事件です。この「バブル崩壊」で、ニュートンも大きな損失を出したといわれています。
国家の信用に関わるこの大混乱に際し、ジョージ1世は財政の天才ロバート・ウォルポールを登用。ウォルポールは見事な手腕で事態を収拾し、失墜しかけた市場と王室への信頼を守ることに成功しました。
ウォルポールはこの事件によってジョージ1世の絶大な信頼を得ることになり、1742年まで政権の中枢で力を振るうことになりました。
英国王としての統治後半:議会政治の成熟と大英帝国への道
南海泡沫事件を巧みに収拾したウォルポールは、大蔵大臣兼財務長官として長期政権を確立。「ウォルポールの平和(Pax Walpoliana)」と呼ばれるこの時代、イギリスは健全財政と経済的繁栄を手にしました。
ジョージ1世は英語が十分に話せなかったこともあり、内政や外交の多くをウォルポールに委ねました。王が政治的争いから距離を置くことで、むしろ王室は安定の象徴として機能し、内閣が議会に責任を負う「責任内閣制」が着実に根付いていきます。「王は君臨すれども統治せず」という近代イギリスの政治体制は、まさにこの時代に形作られたのです。
1727年6月、ジョージ1世は愛着の深い故郷ハノーヴァーへの旅の途中、脳卒中に倒れ、息を引き取りました。享年67歳。
ジョージ1世の死後、王位は息子のジョージ2世へ順調に継承され、ハノーヴァー朝はその後174年にわたって続くことになります。議会政治の成熟と王朝の安定、社会の繁栄は、やがて来る大英帝国の礎となりました。

家族に囲まれたジョージ1世(画像出典:Wikimedia Commons)
❖ジョージ1世をより深く知るための意外な事実!
イギリスの興隆期に君臨したジョージ1世。
彼をよく知るための意外な事実をご紹介します。
「水上の音楽」が取り持ったジョージ1世とヘンデルの絆
軍人としてのイメージが強く、文化的な逸話が少ないジョージ1世。そんな彼ですが、バロックの巨匠ヘンデルとの絆はとてもよく知られています。
ジョージ1世がハノーヴァー選帝侯だった時代、ヘンデルはハノーヴァーの宮廷楽長でした。しかしヘンデルは休暇中に訪れたロンドンに定住、ハノーヴァーの楽長職を放擲してしまいます。その後、ジョージ1世がイギリス国王として即位し、2人はロンドンで再会しました。気難しいジョージ1世に許してもらえるのか、ヘンデルはびくびくしていたようです。
2人の和解の場となったのは、1717年に開催されたテムズ川での舟遊びでした。この日、ヘンデルは新作『水上の音楽』を披露。王はその見事な旋律を絶賛し、1日に3回も演奏を繰り返させたほどでした。
この出来事の後から、ジョージ1世は生涯を通じてヘンデルの熱心な後援者であり続けました。
コーヒーハウスで熱く議論された南海泡沫事件
16世紀末に南米からヨーロッパにもたらされたコーヒー。
ジョージ1世の時代、ロンドンのコーヒーハウスはあらゆる階級が出入りでき、議論を交わす場として隆盛を極めました。
パブと違い、酔うことなく理性的な議論ができる場となったコーヒーハウスでは、前述の南海会社の株取引や、近代的な議会政治に関する議論も活発だったといわれています。
コーヒーハウスのブームが、ジョージ1世の時代のイギリス社会にさまざまな影響を与えたのです。

ジョージ1世の時代に大流行したコーヒーハウスの様子(画像出典:Wikimedia Commons)
長女のゾフィ・ドロテアはフリードリヒ大王の母!
ジョージ1世と妃ゾフィ・ドロテアの間には、跡継ぎのジョージ2世のほかに、母と同名の長女ゾフィ・ドロテアがいました。
プロイセン王妃となったゾフィ・ドロテアの息子が、啓蒙君主として名高いフリードリヒ大王です。ハプスブルク家のマリア・テレジア女帝の生涯のライバルとして有名なフリードリヒ大王は、優れた戦術家であり、強靭なメンタルの持ち主であったことで有名。
祖父ジョージ1世の武人としての血脈は、イギリス国外でも生きていたことがわかります。

啓蒙君主として有名なフリードリヒ大王はジョージ1世の孫(画像出典:Wikimedia Commons)
❖最後に
愛する故郷ハノーヴァーから遠く離れたイギリスで、王位を継承したジョージ1世。
英語を解さないながら、軍人としての堅実さと人材登用の柔軟さを発揮し、近代的な議会政治の発展に寄与しました。
王朝が変わる転換期にあって、国家の舵取りを誤らず、制度と政治の安定をもたらした治世は、のちの大英帝国の繁栄に続く礎となったといえるでしょう。
英語を十分に話せなかったことが、かえってイギリスの政治のあり方を変えていったというのは、少し意外でした。
華やかに前へ出る王というよりも、人を見極めて任せることで国を支えた人物だったのかもしれませんね。
ヘンデルとの交流やコーヒーハウスの賑わいなども知ると、ジョージ1世のコインから、18世紀のイギリスの空気まで少し身近に感じられそうです。
参考文献
森譲『英国王室史話』1986年刊、大修館書店
中野京子『イギリス王家12の物語』2017年、光文社
平凡社世界大百科事典「ジョージ1世」「ウォルポール」「南海泡沫事件」
小学館日本大百科全書「ジョージ1世」
Britannica | George I king of Great Britain
BBC | King George I
Royal.UK | George I (r. 1714-1727)
EBSCO | George I
An Historian About Town | King George I
Phil Wain | A History of London Coffee