王権神授説を信じ、処刑台に散った唯一の英国王:チャールズ1世
チャールズ1世というと、「処刑された英国王」という強い印象があります。
けれど、その生涯をたどってみると、ただ時代に取り残された王というだけではなく、自らの信念を最後まで曲げず、家族や芸術を深く大切にした人物だったことも見えてきます。
王と議会の関係が大きく揺れた時代に、彼が何を信じ、どのように生きたのか。そんな視点で読み進めてみてください。
17世紀にイギリスとスコットランドを統治したチャールズ1世。
王権神授説を信じ、不屈の精神で王としての務めを果たしました。
一方で、自らの信念に忠実すぎたがゆえに、近代的な議会政治と妥協できなかった悲劇の王としても知られています。
英国の歴史においてただ1人、裁判にかけられ、処刑されたチャールズ1世はどのような王だったのでしょうか。
彼の生涯と功績を追います。

バロックの巨匠アンソニー・ヴァン・ダイクによるチャールズ1世の肖像(画像出典:Wikimedia Commons)
❖チャールズ1世の人生概略
| 1600年 | スコットランドのファイフにて、ジェームズ6世(後のイングランド王ジェームズ1世)の次男として誕生 |
| 1612年 | 兄ヘンリーの死により皇太子となる |
| 1625年 | 父の死に伴い、イングランドおよびスコットランドの王として即位 フランス王女ヘンリエッタ・マリアと結婚 |
| 1628年 | 議会が提出した権利の請願を不本意ながら承認する |
| 1629年 | 王権のあり方をめぐって議会と対立、議会を解散 以後11年間にわたる無議会政治を開始 |
| 1632年 | フランドル出身のアンソニー・ヴァン・ダイクを宮廷画家として招く |
| 1637年 | スコットランドに英国国教会式祈祷書を強制したため、暴動が発生 |
| 1640年 | スコットランドとの戦費調達のため議会を再開 |
| 1642年 | ピューリタン革命(イングランド内戦)が始まる |
| 1645年 | ネイズビーの戦いでクロムウェル率いる議会軍に敗れる |
| 1646年 | スコットランド軍に投降、身柄を議会軍に引き渡される |
| 1648年 | 再び内乱を起こすも失敗 |
| 1649年 | 1月20日、「専制君主・反逆者・国家の敵」として裁判にかけられる 1月30日、ロンドンのホワイトホール宮殿前で公開処刑される |
❖時代背景:王冠をめぐる不協和音──絶対主義から立憲君主制へ
17世紀、チャールズ1世の治世は、父ジェームズ1世から引き継いだ根深い宗教対立に加え、経済不安が深刻化した時代でした。
この時代の宗教対立を知る上で、重要な宗派は3つあります。
教義のベースはプロテスタントですが、組織のヒエラルキーや儀式の華やかさなど、カトリック時代の名残を色濃く残していました。
チャールズ1世は表向き英国国教会を支持していました。
しかし、カトリック国フランスの王女ヘンリエッタ・マリアと結婚したころから、「王はカトリック寄りである」というイメージが広がり始めます。
さらに1633年のスコットランド戴冠式で、カトリック的な要素を含む英国国教会式の礼拝を行ったことで、プロテスタント派が激しく反発。チャールズ1世への不信感を募らせていきました。
王権神授説を強く信じるチャールズ1世に対し、ピューリタンの多くは議会派であり、宗教的かつ政治的な対立は一層複雑になっていきました。
英国における議会の歴史は古く、13世紀末にさかのぼります。高位聖職者、貴族、市民などさまざまな階級の代表が集い、課税は議会の承認が必要でした。
おりしも、英国は悪天候や凶作が続き、国庫や王室財政を圧迫。チャールズ1世の臣下たちは、王に議会の開催を進言し続けました。
チャールズ1世は、即位後まもなく戦費調達のための公債を課し、これに議会が反発。
1628年に「権利の請願」を王に提出します。権利の請願は、王が議会の承認なく課税したり、むやみに臣下を逮捕・投獄したりしてはならないという要求でした。チャールズ1世は不本意ながら承認したものの、直後に議会を解散。
以後11年にわたる無議会政治が続きます。
英国国内の不協和音は、スコットランドへの宗教的介入を機に内戦へと発展します。
議会軍を率いて頭角を現したのが、オリヴァー・クロムウェルでした。
1645年のネイズビーの戦いで王党軍は決定的な敗北を喫し、翌1646年にチャールズ1世はスコットランド軍に投降。それでも王権を主張し続けた王に対し、議会軍は「王を裁く」という前代未聞の決断を下します。
1649年、「専制君主、反逆者、国家の敵」として有罪判決を受けたチャールズ1世は、ホワイトホール宮殿前で公開処刑されました。
宗教と政治が激しくぶつかり合い、王権と議会制度の関係が根本から問い直されたチャールズ1世の時代。王の処刑は、イギリスが絶対王政から立憲君主制へと移行する、歴史の大きな転換点となりました。

後世の画家や王侯貴族に大きな影響を与えたヴァン・ダイクの作品。チャールズ1世のポーズは、フランスやスペイン王室でも模倣されました(画像出典:Wikimedia Commons)。
❖チャールズ1世の生涯と功績
英国王室の歴史の中でただ1人、裁判にかけられ処刑された悲劇の王チャールズ1世。
彼の生涯と功績を紹介します。

20代前半のチャールズ1世(画像出典:Wikimedia Commons)
少年期~青年期:内気な次男が急死した兄の後を継いで皇太子に
チャールズ1世は、1600年、スコットランド王ジェームズ6世(後のイングランド王ジェームズ1世)の次男として誕生しました。父が英国王となったのは、チャールズ1世が2歳の時のことです。
チャールズ1世は幼いころから病弱で、吃音があったともいわれており、内気な性格。宮廷でも目立たない存在でした。
その運命が急転するのは、1612年。快活な美男であった兄ヘンリーが急死し、チャールズ1世は皇太子となります。
1623年、大国スペインとの友好関係を維持するため、スペイン王女に求婚するためにマドリッドの宮廷に赴きました。しかし交渉はうまくいかず、チャールズ1世は未婚のまま王位を継ぐことになります。
統治初期:幸福な結婚と議会との対立
1625年、父ジェームズ1世の死に伴い、チャールズ1世として即位。その数か月後、フランス王女ヘンリエッタ・マリアと結婚しました。
政略結婚であったにもかかわらず、チャールズ1世とヘンリエッタ・マリアはとても仲が良く、2人の間には9人の子どもが生まれます(そのうち5人は死産および夭折)。
しかしプロテスタントが主流を占める議会は、妻の影響を受けてカトリックに共感を深めるチャールズ1世への不信感を高めていきました。
王権神授説を信奉するチャールズ1世にとって、議会は王の政策に反対する障害でしかありませんでした。特に対外戦争の戦費調達をめぐって、議会との対立が激化します。
1628年、議会は王に対し「議会の承認なき課税の禁止」や「恣意的な逮捕の停止」を求める「権利の請願」を提出し、これを認めさせます。
妥協を嫌った王は、議会を解散。その後、11年間にわたって議会を1度も開かない「無議会政治」を断行しました。絶対王権による統治を貫こうとする王の姿勢は、国内の不満をさらに募らせることになったのです。

チャールズ1世の妃ヘンリエッタ・マリア(フランス王女)。カトリック教徒であり、チャールズ1世に強い影響を与えました(画像出典:Wikimedia Commons)。
統治中期:11年におよぶ専制と芸術の黄金期
1629年から1640年までの11年間、チャールズ1世は議会を開催しない独裁政治を行いました。海軍の充実を目指して船舶税を全国へ拡大するなど、チャールズ1世は自らの信念に忠実に、さまざまな政策を実施しています。
この時期、フランス王女であった妻ヘンリエッタ・マリアの影響もあり、チャールズ1世は多くの芸術家のパトロンとなりました。

アンソニー・ヴァン・ダイクが描いたチャールズ1世の家族の肖像(画像出典:Wikimedia Commons)
フランドルのルーベンスに宮殿の天井画を描かせたり、バロックの天才ベルニーニに自らの胸像を造らせるなど(焼失して現存せず)、王室コレクションを充実させました。
特筆すべきは、アンソニー・ヴァン・ダイクを主席宮廷画家に任命したことです。チャールズ1世の繊細さや気品は、ヴァン・ダイクによる肖像画によって伝えられました。
英国の宮廷文化は、チャールズ1世の美学によって花ひらいたのです。

彫刻家ベルニーニの制作のためにヴァン・ダイクが描いたチャールズ1世の姿。ベルニーニはこの絵をもとに王の胸像を造りました(画像出典:Wikimedia Commons)。
統治後期:議会との対立と内戦の勃発
1637年、チャールズ1世はスコットランドに対して、英国国教会式の新しい祈祷書の導入を強行しました。これが、内戦の引き金となります。
「長老派」と呼ばれる独自の信仰形態を持つスコットランドでは、暴動が発生。イングランドとスコットランドの武力衝突が始まります。
莫大な戦費調達の必要に迫られたチャールズ1世は、議会を開催せざるを得ない事態になりました。
「徴税権は神から王に与えられた権利」と信じていたチャールズ1世ですが、イングランドには「課税には議会の同意が必要」という伝統が根付いていました。実際、チャールズ1世が課税を命じても、「議会の承認がないから」という理由で、納税を拒否する商人や地主が多数存在しました。議会を軽視したチャールズ1世は、議会を敵に回すだけではなく、徴税もままならず戦費が調達できない状況に陥りました。
招集された議会で、王は戦費調達の承認を求めましたが、議会側はそれを拒否。
逆に、11年間の「無議会政治」における王の専制的な統治を激しく批判し、王の権限を制限する政治的要求を突きつけました。
1642年、国王と議会派が決裂。内戦が始まります。
王と議会の対立は修復不可能となり、イングランドは本格的な内戦(ピューリタン革命)へと突き進むことになります。

内戦に臨むチャールズ1世(画像出典:Wikimedia Commons)
統治の終焉:ピューリタン革命と王の最後
ピューリタンとは、英国国教会の中でカトリック的な慣習を排除し、より純粋(ピュア)な信仰を求めた改革派の人々のこと。チャールズ1世のカトリック寄りの姿勢に反発したピューリタンが、議会軍の主力となりました。この内戦が「ピューリタン革命」と呼ばれているのは、そのためです。
内戦勃発後、チャールズ1世は軍を率いて議会軍と戦いました。しかし、革命の指導者オリヴァー・クロムウェル率いる議会軍に対し、王党軍は次第に追い詰められていきます。
1645年のネイズビーの戦いで王党軍は壊滅的な敗北を喫し、翌年チャールズ1世は投降しました。
捕虜となった後も、チャールズ1世は議会との妥協を拒絶しました。
王権の正統性を主張し続けるチャールズ1世に対し、議会は「人民による国王の裁判」を強行します。
1649年1月、法廷はチャールズ1世を専制君主および国家に対する反逆者と断罪し、死刑判決を下しました。

チャールズ1世の処刑の様子(画像出典:Wikimedia Commons)
同年1月30日、ホワイトホール宮殿前で、チャールズ1世は公開処刑によって死去。
王権と議会の衝突が生み出したこの歴史的事件によって、イギリスは絶対王政から立憲君主制への道を歩み始めることになります。
チャールズ1世を処刑したクロムウェルは、「護国卿」という実質的な最高権力者となりますが、チャールズ1世の死後わずか10年で亡くなりました。
政治的な誤りがあったチャールズ1世ですが、私生活では王妃ヘンリエッタ・マリア1人を一途に愛し、「よき夫、よき父」でした。
1660年の王政復古によって、チャールズ1世の長男が、チャールズ2世として王となっています。

チャールズ1世の子どもたち。中央にいるのが後に王となるチャールズ2世、左から2番目に立つのがのちのジェームズ2世(当時の風習で少女服を着用)(画像出典:Wikimedia Commons)。
❖チャールズ1世をより深く知るための意外な事実!
英国王室の歴史の中でも悲劇の王として名を残したチャールズ1世。
彼をよく知るための意外な事実をご紹介します。

チャールズ1世の亡骸を確認するクロムウェル(画像出典:Wikimedia Commons)
処刑の日、下着を2枚重ねて着た理由
チャールズ1世が処刑されたのは1649年の1月30日、極寒の日でした。チャールズ1世は従者に、温かい下着を2枚用意するように命じました。
その理由を尋ねられたチャールズ1世は、「この寒さでは体が震えてしまう。死への恐怖で震えていると誤解されるのは心外だから」と語ったといわれています。
捕らえられてもなお、王としての誇りを失わなかったチャールズ1世らしいエピソードです。
フランスのルイ16世はチャールズ1世に執着していた?
マリー・アントワネットの夫であり、断頭台で処刑されたフランスのルイ16世。
熱心な読書家であったルイ16世は、ヒュームの『イングランド史』を愛読し、チャールズ1世の生涯を記した章に強く執着していたと伝えられています。
ルイ16世が強硬策を避けて妥協を重ねたのも、チャールズ1世のような末路を避けるための用心だったという説もあります。
しかし皮肉にもその思いは実らず、ルイ16世もまた国民の手によって処刑される運命をたどりました。
死後には殉教者として崇められる
王権神授説を信じていたのはチャールズ1世だけではありませんでした。当時の多くのイングランド国民にとっても、王は神に等しい存在でした。
処刑されるチャールズ1世を目撃した民衆は衝撃を受け、処刑台に駆け寄って流れる血を布に染み込ませ、聖遺物として持ち帰ったという逸話が残っています。
❖最後に
絶対王政と議会政治のバランスのはざまで苦悩し、悲劇的な最後を遂げたチャールズ1世。
英国が独自の立憲君主制を確立した背景には、自らの信念に忠実に行動したチャールズ1世の存在がありました。
家庭を慈しみ、芸術を深く愛した1人の人間としての横顔と、時代の流れに抗い続けた君主としての誇り。
その両面から、チャールズ1世の真摯な生き方が伝わってきます。
処刑という結末だけを見ると厳しい王という印象が残りますが、その背景を知ると、チャールズ1世の見え方も少し変わってきますね。
家族を大切にし、芸術を愛した一方で、王としての信念は最後まで譲らなかった。その両面があったからこそ、これほど印象に残る人物なのかもしれません。
次にチャールズ1世の肖像を目にしたときは、その穏やかな表情の奥にあった強い意志や、彼が生きた時代の緊張感まで少し想像してしまいそうです。
参考文献
小学館日本大百科全書「チャールズ1世」「ピューリタン」
平凡社世界大百科全書「チャールズ1世」「ピューリタン」
新カトリック大事典「聖公会」「ピューリタン」
森譲『英国王室史話』2000年、中央公論社
中野京子『イギリス王家12の物語』2017年、光文社
Britannica | Charles I
Royal.UK | Charles I