結婚は最大の賭け?ハプスブルク家が政略結婚でヨーロッパを制した方法

結婚は最大の賭け?ハプスブルク家が政略結婚でヨーロッパを制した方法

 

スタッフのひとことナビ
S.Mori(コイン歴3年)

今回は、ハプスブルク家が「戦争ではなく結婚で領土を広げた」と言われる理由を、あらためて辿っていくコラムなんですね。

政略結婚というと冷たい駆け引きのようにも聞こえますが、実際には、早すぎる死や予想外の継承、個人の感情までもが絡み合っていて、歴史は本当に偶然の積み重ねで動いていたのだと感じさせられます。

結婚ひとつで国の運命が変わり、その結果として生まれた帝国が、後のヨーロッパ全体にまで影響していく流れは、思っていた以上に壮大ですね。

コインに刻まれた王や女王たちの姿も、そんな不安定な時代の中に立っていたのだと思いながら読むと、また少し印象が変わってきそうです。

 

 

「結婚せよ、幸運なオーストリアよ」

ハプスブルク家の領土拡大を評した言葉です。
ハプスブルク家の中興の祖マクシミリアン1世が仕掛けた一連の政略結婚は、本人さえ予想しなかった巨大な帝国をもたらしました。
当時の複雑な結婚事情を、ハプスブルク家を例に解説します。

 

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(画像出典:Wikimedia Commons)。

 

 

スペインとの二重結婚:伴侶死亡の不幸から生まれた大帝国

15世紀末、マクシミリアン1世は急成長を遂げるスペイン王国と手を組むため、息子フィリップと娘マルグリットを、それぞれスペインの王子・王女と結婚させました。
結婚の目的は、ライバルフランスと対抗するために強力な同盟関係を築くこと。しかし、ここから運命の歯車が、誰も予想しなかった方向へと回り始めます。
その経緯を見ていきましょう。

 

ハプスブルク家のフィリップ美公とカスティーリャ王女フアナの宮廷(画像出典:Wikimedia Commons)。

 

 

スペイン王家との二重結婚

「スペイン」という国の基礎が生まれたのは1479年のこと。

カスティーリャ王国の王女イザベルとアラゴン王国の王子フェルナンドが結婚。それぞれの国の君主となったことで、イベリア半島に統一国家が誕生しました。イスラム勢力の一掃に力を注いだ2人は「カトリック両王」と呼ばれ、強国スペインの礎を築きます。

この新興国に目をつけたのが、ハプスブルク家のマクシミリアン1世です。

フランスと敵対していた彼にとって、スペインとの同盟は喉から手が出るほど欲しいものでした。そこで彼が打った手が「二重結婚」です。

手元に残る2人の子どもを、2人ともスペイン王家と縁組させるという大胆な賭けでした。息子フィリップをスペイン王女フアナと、娘マルグリットをスペイン王太子フアンと結婚させたのです。後継者を2人とも同時に差し出すこの決断に、マクシミリアン自身も不安を覚えていたと歴史書は伝えています。

この二重結婚は、後に「狂女」と呼ばれるようになるフアナの悲劇を決定づけました。彼女の波乱に満ちた生涯については、こちらのコラムもご覧ください。

ハプスブルク帝国を広げた 「美しき姫君」と「狂える王女」

 

カスティーリャ女王フアナ(画像出典:Wikimedia Commons

 

 

息子たちの死によって変わった地図

運命は、マクシミリアンの想定をはるかに超えた方向へ動き始めます。スペイン側の王位継承者たちが、若くして次々と世を去ったのです。

まず王太子フアンが結婚後まもなく病死。
懐妊中だったマルグリットも死産という悲劇に見舞われます。
カスティーリャの継承権は、イザベル1世の長女イザベル(母娘が同名という例はヨーロッパでは珍しくありません)へと移りましたが、彼女もポルトガルで難産により早逝。
気づけば王位継承権は、ハプスブルク家のフィリップ美公に嫁いでいた次女フアナのもとへ転がり込んでいました。

フィリップ美公は、「女王の夫」に甘んじるつもりはありませんでした。
フアナの精神的な不安定さを盾に共同統治者の座を主張。カスティーリャの有力貴族を巻き込んでカスティーリャ王フェリペ1世(フィリップのスペイン語名はフェリペ)の座を勝ち取ります。ただしフアナの父フェルナンド2世がアラゴン王位を保持していたため、カスティーリャとアラゴンを束ねる「スペイン王」にはなれませんでした。

そのフェリペ1世も、即位からわずか数ヶ月、28歳の若さで急死。
精神を病んだフアナは父フェルナンド2世によって幽閉され、以後40年「我、女王なり」と署名し続けながらその生涯を終えます。

フェルナンド2世の死後にようやく、フアナとフェリペ1世の長男カルロス1世が統一スペインの王として即位しました。
カルロス1世は同時に、祖父マクシミリアンから神聖ローマ皇帝位も継承しカール5世となります。スペイン・ネーデルラント・ナポリ・シチリア、さらには新大陸の植民地までを手中に収めた「陽の沈まない帝国」が、ここに誕生しました。
マクシミリアンが仕掛けた結婚という賭けは、本人でさえ夢想しなかったほどの果実をハプスブルク家にもたらしました。

 

スペイン王家との二重結婚を示す相関図(画像:PRIME MINTにて作成)。

 

 

ボヘミア・ハンガリーとの二重結婚:東方への布石

ボヘミア・ハンガリー王となったフェルディナント1世。マクシミリアン1世の孫で、スペイン王カルロス1世の弟でした。フェルディナント1世の血統が20世紀まで残ることになります。

マクシミリアンの結婚外交は、西のスペインだけを向いていたわけではありません。彼は東方、すなわちボヘミア(現在のチェコ)とハンガリーに対しても、同じ手を打っていました。

ボヘミア・ハンガリー王国とも二重結婚を仕組んだマクシミリアン1世。こちらの結果も、ハプスブルク家に幸運をもたらしました。

 

フェルディナント1世(画像出典:Wikimedia Commons

 

 

ボヘミア・ハンガリー王国との二重結婚

マクシミリアン1世は、孫のフェルディナント(カール5世の弟)をボヘミア・ハンガリー王女アンナと結婚させます。アンナの兄であり、ボヘミア・ハンガリー両王国の後継者であるラヨシュ2世には、フェルディナントの妹マリアを嫁がせました。
スペインと同様の二重結婚です。

東方への布石となった二重結婚政策には、もうひとつの背景がありました。
当時、オスマン帝国が東ヨーロッパへ侵攻。ハンガリーはその最前線に立たされていたのです。ラヨシュ2世は若き国王として懸命にオスマン軍に抗いましたが、1526年のモハーチの戦いで、跡継ぎを残さないまま戦死。20歳という若さでした。

 

ボヘミア・ハンガリー王国の王女アンナ。フェルディナント1世の妃となり、15人の子どもの母となりました(画像出典:Wikimedia Commons)。

 

 

ボヘミア・ハンガリー王位がハプスブルク家に

ラヨシュ2世の死によって、ボヘミアとハンガリーの王座は空位となります。
義兄にあたるフェルディナントが両王国の継承権を主張し、貴族たちの支持を得て即位します。ボヘミアもハンガリーも、女性の継承を排除するサリカ法典を擁する国ではありませんでしたが、「女性も継承権を持てる」ことを意味しても、「女性が優先して統治する」慣例はありませんでした。王女アンナの王位継承権は、フェルディナントの王位主張を正統化するための裏付けとなったといえます。

加えて、当時のボヘミア・ハンガリー王国は、オスマン帝国の脅威に晒されていました。
貴族議会が軍事力を持つ男性君主を必要としていたという現実的な事情も大きく働きました。アンナ自身がフェルディナントの即位を積極的に支持しており、夫婦は共同でボヘミア・ハンガリーの統治基盤を築いたのです。

こうしてフェルディナント1世は、祖父マクシミリアンから受け継いだオーストリア大公位、結婚によって得たボヘミア・ハンガリーの王位、そして後に兄カール5世から譲られた神聖ローマ皇帝位を兼ねる大君主となりました。

 

ボヘミア・ハンガリー王家との二重結婚を示す相関図(画像:PRIME MINTにて作成)。

 

 

その後のハプスブルク家

マクシミリアン1世が仕組んだふたつの二重結婚。
その後、スペインとオーストリアのハプスブルク家は、まったく異なる運命をたどります。
スペイン系ハプスブルク家は親族間の結婚を繰り返した結果、カルロス1世からわずか4代後の1700年、カルロス2世を最後に断絶。一方、フェルディナントとアンナの血統であるオーストリア系は脈々と受け継がれ、マリア・テレジアやその娘マリー・アントワネットを輩出しながら、1918年の第一次世界大戦終結まで約400年にわたってヨーロッパの中心に君臨し続けました。

 

オーストリア系のハプスブルク家に生まれたマリア・テレジア。ボヘミア・ハンガリー女王として君臨しました(画像出典:Wikimedia Commons)。

結婚が帝国を生み出し、近親婚が帝国を滅ぼす。
ハプスブルク家の盛衰は、政略結婚がもたらす運と不運によって決まったといっても過言ではないでしょう。

 

 

スタッフのひとことコメント
Mina Yoshii(コイン歴2年)

ハプスブルク家の歴史を見ていると、「結婚」が単なる家同士の約束ではなく、国境や王位、時には人の人生そのものまで動かしてしまうものだったことが伝わってきますね。

巨大な帝国を築くきっかけになった二重結婚も、振り返ってみると、計画通りというより偶然や不運の積み重ねによって形作られていた部分が大きかったのかもしれません。

華やかな王家の歴史の裏側で、フアナやマルグリットのように運命に翻弄された人々がいたことを思うと、コインに刻まれた肖像も、ただの権威の象徴ではなく、一人ひとりの人生の痕跡のように感じられてきます。

次にハプスブルク家のコインを見るときは、その裏にどんな結婚や継承の物語があったのか、少し想像しながら眺めてみるのも面白そうですね。

 

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