マリア・テレジア女帝の娘たち:18世紀のヨーロッパを彩った残酷で華麗な人生
偉大な統治者にして、16人の子どもの母であったマリア・テレジア女帝。
そのうち娘は11人、結婚や修道院入りまで生き残れたのは6人でした。末娘が有名なフランス王妃マリー・アントワネット(オーストリア皇女としてはマリア・アントーニア)です。
当時の慣習として、皇女として生まれた彼女たちは政略結婚をするのが通例でした。しかし中には、恋愛結婚をしたり、政略結婚の相手を嫌い母に反抗を続けた娘もいます。
4人の息子たちとは異なる境遇にあった娘たち。
それぞれの生涯を追ってみましょう。

マリア・テレジア女帝の4女マリア・クリスティーナが描いた宮廷のワンシーン。彼女は母のお気に入りで、姉妹の中で唯一、恋愛結婚を許されました(画像出典:Wikimedia Commons)。

マリア・テレジアの16人の子どもたち一覧。マリア・テレジアは16人の子どもに恵まれましたが、そのうち6人は成人を迎えることなく亡くなりました(画像:PRIME MINTにて作成)。
❖外国に嫁ぐ&修道院に入ることで帝国を支えた娘たち!当時の時代背景
18世紀のヨーロッパでは、王族の娘に与えられる選択肢は多くありませんでした。有力な王家へ嫁ぐか、修道院に入るか。いずれも、ハプスブルク家の利益のための選択です。
マリア・テレジアも例外ではなく、娘たちの結婚は帝国の外交戦略のひとつでした。
フランス、ナポリ、そしてパルマへ。
娘たちは嫁ぎ先の国との同盟を強化し、ハプスブルク家の影響力をヨーロッパ中に広げる役割を担ったのです。
11人生まれた娘のうち、嫁いだり修道院に入ったりして役割を果たせたのは6人のみ。当時は幼児死亡率が非常に高く、残る5人は幼くして、あるいは嫁ぎ先が決まった矢先に世を去っています。
マリア・テレジアは、娘たちを「外交の駒」として送り出し、嫁いだ後も手紙で礼儀から読書習慣まであらゆることに介入していました。6人も娘がいれば、従順な娘だけではなく、反抗する子、諫言を受け付けない子もいます。
娘たちの人生は、マリア・テレジアの思惑通りにいかなかったケースもあります。
それぞれの人生を追っていきましょう。

インスブルックのホーフブルク宮殿には、幼くして亡くなった娘たちの姿が描かれています(画像出典:Wikimedia Commons)。
❖王妃となった娘たち:マリー・アントワネットとマリア・カロリーナ
フランス王妃として有名になったマリー・アントワネットは、マリア・テレジア女帝の末娘です。そのマリー・アントワネットと3歳違いの姉、マリア・カロリーナも、王妃となりました。
2人はどんな人生を歩んだのでしょうか。

漫画『ベルサイユのばら』で有名になったマリー・アントワネット(オーストリア皇女としてはマリア・アントニア)(画像出典:Wikimedia Commons)
オーストリアの宿敵フランスへ!時代の濁流にのまれた王妃マリー・アントワネット

皇女時代、10歳くらいのマリー・アントワネット(当時はマリア・アントニア)(画像出典:Wikimedia Commons)
日本でも有名なフランス王妃、マリー・アントワネット。オーストリア皇女としての名はマリア・アントニアです。マリア・テレジア女帝が末娘に課した「フランス王家への輿入れ」という使命は、当時のヨーロッパ全土を驚かせる歴史的事件でもありました。
ハプスブルク家とフランス王家は、実に250年もの間、幾多の戦争を繰り返してきた不倶戴天の敵同士。しかし、急速に軍事力を強めるプロイセンの脅威を前に、マリア・テレジア女帝は長年のわだかまりを捨て、フランスとの同盟という「外交の革命」に打って出ます。その同盟の証として、わずか14歳の末娘マリー・アントワネットがフランスへと送り出されたのです。
善良ながら内向的な夫ルイ16世との生活、そして異国の冷ややかな視線。孤独を埋めるように贅沢に身を投じたマリー・アントワネットのもとには、「フランス人に愛される王妃であれ」という母マリア・テレジアからの手紙が絶え間なく届きました。そのアドバイスを受け、マリー・アントワネットは病院への寄付や貧しい人々への施しなど、慈善活動を行っていたという記録があります。しかし、母が危惧した通り、時代の激流は無邪気なマリー・アントワネットを否応なくのみこんでいきました。
1789年、フランス革命が勃発。怒り狂った民衆たちに捕らえられたマリー・アントワネットは、最後には王妃の誇りと振舞いを見せ、37歳の若さで処刑されました。
政略結婚の駒として、重すぎる歴史の宿命を背負わされた一皇女の生涯は、多くの小説や映画のテーマになっています。
母譲りの政治的手腕を発揮!ナポレオンに挑んだ王妃:マリア・カロリーナ

ナポリ王フェルディナンド4世と王妃のマリア・カロリーナは18人の子どもに恵まれました(成人したのは7人)(画像出典:Wikimedia Commons)。
あまり知られていませんが、マリア・テレジア女帝の娘の中でもう一人、王妃となった女性がいます。それがマリア・カロリーナです。16歳で急死した姉マリア・ヨーゼファに代わり、マリア・カロリーナはナポリ王フェルディナンド4世と結婚、ナポリ王妃となりました。
3歳違いの妹マリー・アントワネットとはとても仲が良く、お互いが結婚した後も、手紙のやりとりをしていたと伝えられています。
母マリア・テレジアに最もよく似ていると評価されたマリア・カロリーナにとって、ナポリでの生活は、彼女の才能を解き放つ場となりました。夫のフェルディナンド4世は狩りに没頭し政治には興味がなかったため、マリア・カロリーナが持ち前の才気で国政を掌握。18人の子を産み育てる傍らで、実質的な支配者として君臨しました。
1793年、妹のマリー・アントワネットが革命によって命を落としたことで、マリア・カロリーナは革命勢力への憎悪を募らせます。フランスと敵対し、イギリスと同盟を結ぶなど策を練りました。しかし、飛ぶ鳥も落とす勢いの皇帝ナポレオンによって、マリア・カロリーナはナポリを追われることに。
最期は失意のうちに、亡命先のオーストリアで亡くなりますが、最後まで皇女そして王妃としての威厳を失わなかったと伝えられています。
❖修道院に入った皇女たち:マリア・アンナとマリア・エリーザベト
ヨーロッパの国々では、君主の子どもが宗教界に入るのは、統治の戦略のひとつでもありました。マリア・テレジアの娘2人も、宗教の世界の重鎮となり、帝国を支えました。
修道院に入った2人の皇女について解説します。

ヨーゼフ2世と修道院に入った2人の皇女マリア・アンナ、そしてマリア・エリーザベト(画像出典:Wikimedia Commons)
父との強い絆を糧に生きた皇女:マリア・アンナ

晩年、修道院長として過ごしたマリア・アンナ(画像出典:Wikimedia Commons)
マリア・テレジアとフランツ1世の第2子として生まれたマリア・アンナ。夭折した長女の代わりに「実質的な長女」として育った彼女は、ハプスブルク家の皇女にふさわしい最高水準の教育を受け、音楽や学問において際立った才能を示しました。
幼少期から病弱であったため、マリア・アンナは「結婚」という名の外交の舞台に出ることはありませんでした。マリア・テレジアは娘の聡明さを見抜き、彼女を宗教界の要職へと導きます。マリア・アンナは、プラハの修道院の院長としての地位を得ました。
多忙な母との薄い縁や、兄弟姉妹間の確執といった環境の中でマリア・アンナを支えたのは、父との強い絆であったようです。
科学者や芸術家と交流し、慈善活動にも力を入れたマリア・アンナは、最後まで皇女にふさわしい人生を送りました。
美貌を失い運命を閉ざされた幻のフランス王妃:マリア・エリーザベト

幼少期のマリア・エリーザベト(画像出典:Wikimedia Commons)
マリア・テレジアとフランツ1世の第6子として生まれたマリア・エリーザベト。夭折した長女の名前を受け継いだ彼女は、姉妹の中でもっとも美しく、結婚という外交の切り札として期待されていました。
とはいえ、欧州を巻き込んだ七年戦争の影響もあり、マリア・エリーザベトの結婚相手はなかなか決まりませんでした。ようやく20代も半ばになって、フランス王ルイ15世との縁談が進み始めます。ルイ15世は、1768年に王妃を亡くしていたためです。
その矢先、マリー・エリーザベトは天然痘に罹患。一命を取り留めたものの、顔に深い痕が残りました。その結果、縁談は白紙撤回。フランスの宮廷へ送り出されたのは、彼女ではなく末妹のマリー・アントワネットでした。
母マリア・テレジアはマリア・エリーザベトのために、インスブルックの修道院院長の身分を与えます。これは名誉職に近い地位であり、皇女としての尊厳を保つための策でした。マリア・エリーザベトは母が亡くなるまでウィーンの宮廷で過ごし、母の崩御を機にインスブルックへ移住。修道院で、静かな晩年を送ったようです。
皇女という華やかな身分と美貌を持ちながら、病気による不運を背負った一生でした。
❖母に溺愛された娘&母に徹底的に反抗した娘:マリア・クリスティーナとマリア・アマーリア
マリア・テレジアは母であることよりも、女帝として娘たちの将来を決めていました。唯一の例外が、第5子のマリア・クリスティーナの恋愛結婚です。
同じように恋愛結婚を望んだ第8子のマリア・アマーリアは、思いを叶えられず、女帝の意向でパルマ王妃となりました。マリア・アマーリアはその境遇を嘆き、母に徹底的に反抗したといわれています。
対照的な人生を歩んだ2人の皇女をご紹介します。

母に溺愛されたマリア・クリスティーナは画才があり、多くの絵画を残しています(画像出典:Wikimedia Commons)。
母に溺愛され兄弟姉妹のあいだで孤立した皇女:マリア・クリスティーナ

「ミミ」の愛称で親しまれたマリア・クリスティーナ (画像出典:Wikimedia Commons)
母マリア・テレジアと誕生日が同じであったことから、一番のお気に入りの娘であったマリア・クリスティーナ。「ミミ」という愛称で呼ばれた彼女は、兄弟姉妹の中で唯一、恋愛結婚を許されました。この特権が、マリア・クリスティーナを孤立させる原因にもなったのです。
マリア・クリスティーナが恋に落ちた相手は、ザクセン選帝侯の6男アルベルト。女帝マリア・テレジアからすれば、娘を彼に嫁がせるメリットはなにひとつなかったにもかかわらず、愛娘の恋心を尊重したうえでの英断でした。
結婚した2人は、女帝からテシェンの公位を得たほか、ネーデルラント総督の地位も獲得。母のマリア・クリスティーナへの抜きんでた寵愛は、他の子どもたちの嫉視の的となり、とくに長男ヨーゼフ2世は激しく嫉妬したといわれています。
マリア・クリスティーナは画才に優れ、当時の宮廷の様子を描いていました。作品はマリア・テレジアの宮廷の様子を伝える史料にもなっています。
母に反旗を翻した皇女:マリア・アマーリア

パルマ公フェルディナンドと妃マリア・アマーリア。彼女にとってはまったく意に添わぬ結婚でした(画像出典:Wikimedia Commons)。
女帝マリア・テレジアが最も頭を悩ませた娘、それが第8子マリア・アマーリアです。彼女は恋仲であったプファルツ選帝侯の一族カール・アウグストとの結婚を望みましたが、女帝マリア・テレジアは冷徹に拒否。政略の駒として、マリア・アマーリアをイタリアのパルマ公フェルディナンドのもとへ嫁がせたのです。
アマーリアの心を傷つけたのは、理不尽なまでの姉との「差」でした。姉マリア・クリスティーナには自由な恋愛結婚を許しながら、自分にはそれを許さなかった母。その激しい怒りと絶望が、彼女を反抗へと突き動かしました。
パルマへ嫁いだ後のマリア・アマーリアは、夫フェルディナンドを公然と軽んじ、派手な生活を送ります。ウィーンから届く母の叱咤や説教の手紙をマリア・アマーリアは受け入れず、母娘の溝はついに埋まることがありませんでした。
教養豊かで母譲りの政治力を持っていた彼女は、パルマの宮廷でも積極的に国政へ介入したため、宮廷内の対立を生むこともあったようです。フランス革命の後、ナポレオンの軍勢によってパルマを追われたマリア・アマーリアは、プラハへ移住。孤独のうちにその生涯を閉じています。
❖最後に
マリア・テレジア女帝の6人の娘たち。いずれもハプスブルク家の皇女という運命のもとで、波乱に満ちた人生を送りました。外国に嫁いだ娘たちは、ハプスブルク家の美しき外交官としての役割を課され、修道院に入った娘たちは宗教界における重要な役割を期待され、それぞれの運命を担ったのです。
娘たちが歩んだ軌跡は、18世紀のヨーロッパを語る上で欠かせない物語となっています。
一人ひとりの人生をたどってみると、「皇女」という立場が決して華やかなだけのものではなかったことが伝わってきますね。王妃となって歴史に名を残した娘もいれば、自分の望みとは違う道を受け入れなければならなかった娘もいて、それぞれに異なる苦悩や幸せがあったように感じられました。
これまではマリア・テレジア女帝やマリー・アントワネットに目が向きがちでしたが、その周囲にいた姉妹たちの存在を知ることで、18世紀ヨーロッパの宮廷が少し立体的に見えてくる気がします。次に肖像画やコインに描かれた皇女たちを見る機会があれば、その人がどんな運命を歩んだのか、少し想像してみるのも面白そうですね。