マリア・テレジア女帝の息子たち:内政を固め帝国を継ぐ
ハプスブルク家の歴史の中で燦然とした輝きを放つマリア・テレジア女帝。1736年、初恋の人フランツ・シュテファンと結婚したマリア・テレジアは、16人の子どもの母になりました。
そのうち、息子は5人。無事に成人したのは4人です。
マリア・テレジアの子どもといえば、悲劇のフランス王妃マリー・アントワネットが有名ですが、ハプスブルク家を支え、コインにその名を刻んだのは、堅実な息子たちでした。
華やかな娘たちに比べ、地味で実務的と評されることも多い息子たち。それぞれの果たした役割とともに解説します。

マリア・テレジアと家族(画像出典:Wikimedia Commons)

マリア・テレジアの16人の子どもたち一覧。マリア・テレジアは16人の子どもに恵まれましたが、そのうち6人は成人を迎えることなく亡くなりました(画像:PRIME MINTにて作成)。
❖息子が生まれなかったら帝国は終わっていた!当時の時代背景
「子どもは何人いても多すぎることはありません」。
折に触れてそう語っていたというマリア・テレジア女帝。その背景には、単なる母性愛を超えた切実な事情がありました。
マリア・テレジアの父カール6世は男子に恵まれず、娘である彼女を後継者にするために各国に根回しを重ねました。しかし、カール6世の死後まもなく周辺諸国が牙をむきます。「女性は統治できない」と主張するバイエルンやプロイセンが領土的野心からハプスブルク家に反発、オーストリア継承戦争(後述)が勃発しました。
実質的な統治者であったことから、マリア・テレジアは「女帝」と呼ばれていますが、実際には夫のフランツ1世が皇帝であり、マリア・テレジアは「皇妃」でした。
このような事情があったからこそ、4人の息子の誕生には大きな意味がありました。母としての喜びであるだけではなく、帝国の未来を複数の手に委ねられるという、統治者としての安堵でもあったのです。
❖母を支え、母に反抗し――皇帝となった息子たちのリアル
マリア・テレジアは5人の息子を出産しています。そのなかでも次男のカール・ヨーゼフは容姿端麗、朗らかな性格から将来を嘱望される存在でした。しかし無情にも、天然痘により16歳で亡くなってしまいます。
生き残った4人の息子たちのうち、2人が神聖ローマ皇帝となりました。
その2人の人生を解説します。

長男ヨーゼフと弟のレオポルト(画像出典:Wikimedia Commons)
愛妻の死を乗り越えられなかった繊細な啓蒙君主:長男ヨーゼフ2世

ドイツ皇帝・ヨーゼフ2世(画像出典:Wikimedia Commons)
3人の娘の出産の後に生まれた長男ヨーゼフ2世は、マリア・テレジアにとっては待望の跡継ぎ。大きな期待をかけ、啓蒙主義の学者たちを招いてヨーゼフ2世の教育に余念がなかったといわれています。
幼少時から気難しく繊細であったと伝えられるヨーゼフ2世は、19歳でスペイン王女イザベラと結婚。夫婦仲はとてもよく、ヨーゼフ2世は幸福な結婚生活を送りました。しかしマリア・イザベラは2度目の出産の後、天然痘で死亡。以後、ヨーゼフ2世は心を閉ざし、ますます気難しい性格になったといわれています。
1765年、父フランツ1世の死に伴い、ヨーゼフ2世は24歳にして母マリア・テレジアと共同統治者となりました。
啓蒙君主として理想を追うヨーゼフ二世の関心は、官僚機構の整備、農民の解放、法制の近代化、教育改革など多岐にわたります。しかし、「1歩の前に2歩を歩む」といわれるほどの性急ぶりで、母マリア・テレジアとの衝突も多かったようです。
ヨーゼフ2世による近代化の動きは「ヨーゼフ主義」と呼ばれるほど影響力を持つようになりますが、母の宿敵プロイセン王のフリードリヒ2世と接近。ポーランド分割(後述)に参画し、母を絶望させました。
母マリア・テレジアの死後、単独統治となってからはさまざまな政策を強行し、各方面の反発を招くことに。1788年、トルコとの戦争のため戦争税を課したことで、人心も離れていきました。戦争税を撤回した直後、48歳の若さで亡くなりました。
人望高き英邁な君主:レオポルト2世

母マリア・テレジアと同じく16人の子どもに恵まれたレオポルト2世の家族(画像出典:Wikimedia Commons)
兄ヨーゼフ2世には嗣子がなかったため、弟のレオポルト2世が神聖ローマ皇帝となります。
レオポルト2世は、18歳でトスカーナ大公になります。トスカーナ大公はメディチ家が継いでいましたが、メディチ家の直系が絶えたため、マリア・テレジアの夫フランツ1世の領土となりました。
本来は2男のカール・ヨーゼフが継ぐトスカーナ大公位でしたが、彼が亡くなったため、3男のレオポルト2世にその役割がまわってきたのです。
啓蒙思想家モンテスキューの影響を受けたといわれるレオポルト2世は、「君主は特権を付与される代わりに、義務と使命を全うしなくてはならない」という信念を持ち、善政を行いました。25年におよぶトスカーナ統治は高く評価されています。
レオポルト2世が兄ヨーゼフ2世の急逝を受けて神聖ローマ皇帝となった時代、帝国はヨーゼフ2世の強硬な改革によって混乱状態にありました。しかしレオポルト2世は、持ち前の冷静さと実務能力で事態を収拾。その手腕に欧州中が期待を寄せましたが、わずか2年後、45歳の若さで急死してしまいます。
母マリア・テレジアと同じく16人の子に恵まれ、人格者としても知られたレオポルト2世。トスカーナ大公の時代から政治的手腕を磨き、神聖ローマ皇帝即位後の活躍が期待されていただけに、その死はハプスブルク家のみならず、混迷する情勢の中で調和を望む声が広がっていた欧州全土で惜しまれました。
❖ベートーヴェンのパトロンに!文化面で活躍した2人の息子たち
神聖ローマ皇帝に即位することがなかった2人の息子もまた、ハプスブルク家において大切な役割を果たしました。
宮廷では地味な存在ながら、文化への後見でよく知られる2人の息子。彼らは、父フランツ1世の芸術愛好家としての資質を受け継いだようです。
2人の人生を追ってみましょう。

マリア・テレジア女帝の末っ子マクシミリアン・フランツと、姉のマリー・アントワネットとその夫ルイ16世(画像出典:Wikimedia Commons)
家庭的な幸福を築いた偉大なる常識人:フェルディナント・カール・アントン

イタリアの名門エステ家の一人娘ベアトリーチェと結婚したフェルディナント・カール・アントン(通称はフェルディナント)。夫婦仲がよく、芸術を庇護しました(画像出典:Wikimedia Commons)。
波乱万丈の人生を送ったマリア・テレジア女帝の子どもたちの中で、平穏な幸福を得たのが4男のフェルディナントです。とくに際立った政治的才能はなかったものの温厚な性格で、文化政策で多くの功績を残しました。
フェルディナントは、イタリアの名門エステ家に男子がなかったため、同家の断絶の危機を救うために一人娘ベアトリーチェと結婚します。以後、フェルディナントはエステ大公となりました。
ベアトリーチェはマリア・テレジアによく似たしっかり者で、おっとりとした夫とは好相性。フェルディナントは浮気することもなく、2人の間には10人の子どもが生まれました。
マリア・テレジアはフェルディナントの統治能力を懸念し、実に600通もの手紙を書いて、臣民のお手本となる振舞いをするようアドバイスを与えています。
ロンバルディアの総督としてミラノの都市計画に貢献したほか、スカラ座の創設、ブレラ美術アカデミーの設立など、現在まで残る文化施設を残しています。
幼かったモーツァルトの才能を見抜いたのもフェルディナントであったといわれており、自らの結婚式では15歳のモーツァルトに依頼して『アルバのアスカーニョ』を上演させています。
ベートーヴェンやモーツァルトを支援した末っ子:マクシミリアン・フランツ

ドイツ騎士団総長の制服に身を包んだマクシミリアン・フランツ(通称マクシミリアン)。音楽家たちのパトロンであり、学校制度の充実を図るなどしてさまざまな形で帝国を支えました(画像出典:Wikimedia Commons)。
マリア・テレジアが38歳で出産したマクシミリアン。末っ子の彼は母に甘やかされ、穏やかでユーモラスな性格に育ちました。美食家でもあり、体型もふくよかであったと伝えられています。
息子たちの中ではただ1人、宗教界に入ります。これは、母マリア・テレジアの戦略のひとつでした。神聖ローマ皇帝を継承するハプスブルク家の当主として、世俗の権力だけではなく、キリスト教会における一定の発言力を維持するためでした。
マクシミリアンは13歳でドイツ騎士団に入団、28歳でケルン大司教(選帝侯)になります。音楽愛好家だったマクシミリアンは、ボンの宮廷楽団員だったベートーヴェンの才能に衝撃を受け、彼のウィーン留学を全面的に支援しました。モーツァルトのパトロンでもあり、『牧人の王』という作品を献呈されています。
兄たちと同様、啓蒙主義の精神を発揮して、近代的な学校制度を整備したり拷問を禁止する法制度を整えるなど、ハプスブルク家の縁の下の力持ちのような存在でした。
❖最後に
マリア・テレジアの16人の子どものなかで、無事に成人した息子は4人。彼らは当時望みうる最高の教育を受け、それぞれの地で「帝国の柱」としてその天分を発揮しました。
華やかなエピソードに彩られた娘たちと比較すると、息子たちの歩みは地味に見えるかもしれません。しかし、女帝が精魂を注いで守り抜いた帝国を次代へと繋いだのは、4人の皇子たちだったのです。