ローマになくとも「神聖ローマ帝国」?その不思議な正体を探る!

ローマになくとも「神聖ローマ帝国」?その不思議な正体を探る!

 

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Mina Yoshii(コイン歴2年)

中世のコインを見ていると、国名ではなく、都市や領邦の名前が刻まれているものに出会うことがありますよね。
その背景にあるのが、「神聖ローマ帝国」という、少し不思議な存在です。
名前から受ける印象と、実際の姿とのあいだにある距離を知ると、中世ヨーロッパの見え方も、少し変わってくるかもしれません。
そんな視点で、気軽に読み進めてみてください。

 

 

中世のコインには、中央ヨーロッパの「自由都市」や「領邦」で発行されたものが多数あります。これらの都市や地域の多くは、「神聖ローマ帝国」の一部です。名前だけ見れば、宗教を重んじる、中央集権型の広大な帝国をイメージします。しかし実際の神聖ローマ帝国は、名が体を表さない国家でした。

ヨーロッパの歴史が苦手という方にもわかりやすく、「神聖ローマ帝国」について解説します。

16世紀の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世。手にしているザクロは「多くの領邦から構成される帝国」の象徴(画像出典:Wikimedia Commons)。

 

 

「神聖ローマ帝国」の先輩、「古代ローマ帝国」

「神聖ローマ帝国」とは、962年から1806年まで続いた国家のことです。現在のドイツを中心に、最盛期の11世紀にはスイスやイタリア北部、フランス東部を含む地域を領有した国家でした。この「神聖ローマ帝国」、名前の由来は、地中海を「我らの海」と呼んだ古代ローマ帝国にあります。

古代ローマ帝国とは、どんな国だったのでしょうか。

 


 

 

イギリスからアフリカの一部まで領有した「古代ローマ帝国」

現在はさまざまな国によって構成されるヨーロッパですが、古代には一大帝国が存在していました。それが古代のローマ帝国です。古代のローマは、紀元前753年に建国されたと伝えられています。ロムルスという名のローマ人を建国の父とするローマはその後、イタリア半島の民族と融合し領土を広げ、地中海を「われらの海」と呼ぶほどに大きくなりました。

共和政という政体では国を治めることができなくなり、紀元前27年、ユリウス・カエサル(英語名はジュリアス・シーザー)の跡継ぎであったアウグストゥスが初代皇帝となり、帝政へと移行します。

古代ローマ帝国は、現在のイギリスからアフリカ北部にまで及ぶ広大な国でした。にもかかわらず、法律の下でさまざまな宗教や文化を持つ人々が共に暮らし、公共施設が整った社会を謳歌しました。

「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」を実現したローマ帝国はその後、蛮族の侵入やキリスト教の国教化による政体の変化などが重なり、衰退します。ローマを中心とする西ローマ帝国が亡びたのは5世紀のことでした(分裂した東ローマ帝国の滅亡は1453年)。



神聖ローマ帝国の成り立ち

西洋史に詳しくない方も、「ゲルマン民族の大移動」という言葉を耳にしたことがあるかもしれません。5世紀末に起こった西ローマ帝国の滅亡は、ゲルマン人たちがローマ帝国に侵入した結果でした。西ローマ帝国が滅びた後、ゲルマン民族たちが次々に王国を建国しました。フランク王国、東西のゴート王国、ヴァンダル王国などによって、古代ローマ帝国の領土は分断されていきます。
各国の王たちは絶大な権力を持ったローマ皇帝に憧れ、彼らの後継者を目指します。その結果、中世の「ローマ皇帝」が生まれました。

神聖ローマ帝国がどのようにして生まれたのかを解説します。

 

ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝として戴冠されるカール大帝(15世紀に作成された年代記の挿絵より(画像出典:Wikimedia Commons)。

 

 

中世の「ローマ皇帝」たち

ローマ帝国が亡びた後も、「ローマ」という響きにはかつての大帝国のイメージがありました。中世の王たちは「古代ローマ帝国の栄光を我が手に!」と望み、「ローマ皇帝」を名乗るようになります。

群雄割拠のヨーロッパで台頭したのは、フランク王国でした。フランク王カール大帝(フランス名シャルル・マーニュ)は、800年にローマ教皇により「ローマ皇帝」として戴冠されます。フランク王国は、現在のフランスとドイツの原型となった国家です。

「ローマ皇帝」を名乗ったカール大帝の死後、息子たちによって帝国は分裂してしまったため、ローマ皇帝位は「空位」が続きました。
歴史上、正式に神聖ローマ帝国の初代とされているのは、962年にローマ教皇ヨハネス12世によって戴冠されたオットー1世。彼はザクセン王朝のドイツ王で、ローマとは関係がありません。にもかかわらず、軍隊を持たないローマ教皇の保護者として武力を持っていたため、オットー1世は「ローマ皇帝」となったのです。

 

 

「神聖ローマ帝国」へ

962年当時は「帝国(Imperium)」と称していた国家は、967年に正統性を主張するために「ローマ(Romanum)」の名前が加えられました。さらに「神聖(Sacrum)」という形容詞がついたのは1157年のこと。フリードリヒ1世の時代です。帝国が「神聖」になった理由は、皇帝とローマ教皇の対立にあります。

中世のローマ皇帝位は、形式的に「ローマ教皇から授けられる」という形をとっていました。ところが、キリスト教会の中だけではなく、世俗の政治にも権力をふるおうとするローマ教皇と皇帝が対立するという状況が、11世紀から13世紀にかけて続きました。「教皇派」と「皇帝派」の対立は、各地の君主間、あるいは都市の中の民衆まで巻き込み、長く分断の時代が続いたのです。

フリードリヒ1世は、「皇帝位はローマ教皇から授けられるものではなく、神から直接に恩寵を受けたものである」と主張。ローマ教皇の介入を避けるために、「神聖ローマ皇帝」を名乗るようになったのです。

 

 

神聖ローマ帝国のかたち

広大な領土を円滑に統治するために、古代ローマは帝政を布きました。つまり、皇帝が絶大な権力を持つ、強力な中央集権国家でした。古代ローマ帝国を規範に登場した中世の「神聖ローマ帝国」は、政体も様相もすべてが異なっています。

18世紀の思想家ヴォルテールに「神聖でもなく、ローマ的でもなく、帝国としての形も成していない国」といわれた神聖ローマ帝国。どのような実像を持っていたのでしょうか。

 

神聖ローマ皇帝としてはカール5世、スペイン王としてはカルロス1世の肖像。15世紀前半から神聖ローマ皇帝位はハプスブルク家が独占するようになりました。1548年ティツィアーノ作、プラド美術館所蔵(画像出典:Wikimedia Commons)。

 

 

神聖ローマ皇帝たちはみなドイツ人

神聖ローマ帝国は、成り立ちからもドイツの君主たちと深い関連がありました。つまり神聖ローマ皇帝は通常はドイツの自分の領土にいて、ローマ教皇に呼び出されたり、自分の権力を誇示したくなるとローマに赴く、という形をとっていたのです。そのため、神聖ローマ帝国の正式名は15世紀ごろから「ドイツ民族の神聖ローマ帝国(Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae)」となったほどでした。
「帝国」と名乗りながら、共有する法律や意識が希薄だった神聖ローマ帝国は、皇帝位を巡って権力者たちの争いが頻繁に起こるようになります。

フランスの王位のような世襲制が確立できなかった当時のドイツは、皇帝位を巡る混乱が避けられなかったのです。

 

 

大空位時代と7人の選帝侯の時代

神聖ローマ皇帝の位を巡る戦いは激化し、1254年から1273年にかけて空位の時代が続きます。帝国の実権は各地の諸侯が握るようになり、軍事力と政治力を持つ皇帝の権威は大きく後退しました。

この状態にピリオドを打つべく登場したのが、ドイツ王と神聖ローマ皇帝を兼ねる地位を、選挙によって選び出すというシステム。選挙に参加できるのは、ドイツでも特に強い力を持つ7人だけでした。

聖俗、それぞれの世界で力を持つ7人とは、マインツ、トリール、ケルンの各大司教、ライン宮廷伯、ザクセン大公およびブランデンブルク辺境伯、ベーメン王。
1356年に調印された金印勅書によって定められた7人の選帝侯たちですが、彼らの選挙は決して公平に実施されたわけではありません。財力や縁戚関係によって、選挙結果が左右されました。
そのような時代に登場したのが、ハプスブルク家でした。

 

ハプスブルク家が独占した神聖ローマ皇帝位

スイスとアルザス地方を領有していたハプスブルク家が神聖ローマ皇帝となったのは1273年。大空位時代のあとのことです。
皇帝となったルドルフ1世は覇気ある人物ではなく、選帝侯たちは「この人物なら簡単に操れるから」という理由で彼を選んだと伝えられています。

そして1440年に神聖ローマ皇帝に選ばれたフリードリヒ3世を機に、皇帝位はハプスブルク家が独占するようになりました。
その理由は、ハプスブルク家のモットーともいうべき「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」にあります。つまり、スイス北部の小領邦を本拠地としていたハプスブルク家は、各地の権力者の娘と結婚することで、権力と財力を確保。有無を言わせずに皇帝位に居座る力を身に着けたのです。

フリードリヒ3世自身は裕福なポルトガル王室の娘を妃にし、その息子マクシミリアン1世はブルゴーニュ公国の一人娘と結婚。さらにその息子のフィリップはスペイン王女と結婚しました。各国の跡継ぎが次々に亡くなったため、ブルゴーニュ公国もスペインの王位も、ハプスブルク家に転がり込んできます。

こうして、神聖ローマ皇帝の位を独占したハプスブルク家は世襲制を確立。ドイツのみならず、ヨーロッパの各地を領有し、一大帝国を築いたのです。

 

 

国民と皇帝の関係はゼロ?帝国の実情

神聖ローマ帝国には、帝国議会や帝国統治院などの組織が存在していましたが、ほとんど実質的な意味を持っていなかったといわれています。
自由都市や長い歴史を持つ領邦は、それぞれの領主が実権を握っており、皇帝と帝国国民の関係は存在しなかったとまで言われているのです。

しかし、各領邦にとっても「神聖ローマ帝国」の一部であるという形式は、権威の象徴となりました。私たちが想像する「帝国」とは異なるイメージの形を持っていたのが、神聖ローマ帝国だったのです。

 

 

神聖ローマ帝国の終焉

1440年から神聖ローマ皇帝の位を世襲してきたハプスブルク家ですが、その歴史が終わったのは1806年のことでした。
その要因となったのが、ナポレオンの台頭です。

 

19世紀のヨーロッパの歴史を変えたナポレオン。彼によって神聖ローマ帝国は終焉を迎えました。1800年ダヴィッド作マルメゾン城所蔵(画像出典:Wikimedia Commons)。

 

 

840年の歴史に幕を閉じた帝国

最後の神聖ローマ皇帝となったフランツ2世は、偉大な女帝マリア・テレジアの孫であり、有名なマリー・アントワネットの甥でした。1805年に行われたナポレオンとの戦いでフランツ2世が敗れた後、神聖ローマ帝国にあった16の領邦が帝国から脱退し、ナポレオン側につきました。フランツ2世は神聖ローマ皇帝を辞し、改めて、ハンガリーを含めたオーストリア帝国を結成。神聖ローマ帝国は、840年に渡る歴史に幕を閉じました。

ここで余談をひとつ。
神聖ローマ帝国を滅亡させたナポレオンですが、彼自身も「ローマ」に憧れていました。ハプスブルク家の皇女との間に生まれた一人息子に、「ローマ王」の称号を与えています。

 

 

コインから知る中世ヨーロッパの楽しい歴史

フランスやイギリスのように、世襲制の君主制がなかなか成立しなかった神聖ローマ帝国は、非常に複雑な歴史を持っています。
聞いたこともない名前の領邦や、都市によるコインの発行が多かったのも、こうした歴史が関連しています。いずれ、神聖ローマ帝国を構成した自由都市や領邦について解説する機会もあると思います。

小さな1枚のコインに潜む複雑なヨーロッパ事情。それを知るのも、コインコレクションの魅力といえるでしょう。

 

(画像出典:AdobeStock)。

 

 

スタッフのひとことコメント
S.Mori(コイン歴3年)

読み終えてみると、「帝国」という言葉のイメージが、ずいぶんやわらいだように感じられますね。
強い中央の力ではなく、無数の都市や領邦が重なり合って成り立っていた世界を思い浮かべると、コインの存在も、より身近に感じられます。
次に中世のコインを手にするとき、その背後にあった都市や人びとの営みを、少しだけ想像してみるのも楽しそうです。
一枚の中に、思いがけない歴史の広がりが見えてくるかもしれません。

 

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