古きよきヨーロッパの品格を体現した皇帝・フランツ・ヨーゼフ1世
ヨーロッパ随一の名門、ハプスブルク家。
約650年にわたるヨーロッパの歴史に君臨し続けたこの王朝の輝きは、フランツ・ヨーゼフ1世に凝縮されています。彼の崩御後、大甥のカール1世が帝位を継ぎましたが、わずか2年で帝国は崩壊。フランツ・ヨーゼフ1世は、ハプスブルク家の最後の栄光として歴史の中で大きな存在感を放っています。
革命が渦巻く激動の時代を、揺るぎない義務感と自己犠牲の精神で支え抜いた皇帝。皇妃エリーザベト(シシィ)の美貌とともに、その生涯は今も伝説として語り継がれてきました。
日本では、宝塚歌劇の人気演目『エリザベート』を通じて、その名を知った方も多いのではないでしょうか。
愛する家族を失い、帝国の終焉を予感しながらも、最後まで玉座に座り続けた皇帝の68年間。
その人生をひもといていきましょう。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(画像出典:Wikimedia Commons)
❖フランツ・ヨーゼフ1世の人生概略
| 1830年 | フランツ・カール大公とゾフィー大公妃の長男として誕生 |
| 1843年 | オーストリア軍の大佐に任命される |
| 1848年 | 伯父フェルディナント1世の譲位と父の相続権放棄を受け皇帝に即位 |
| 1854年 | 従姉妹のエリーザベト(愛称シシィ)と結婚 |
| 1859年 | イタリア独立戦争によりロンバルディア地方を失う |
| 1867年 | オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立によりハンガリー国王として戴冠 |
| 1879年 | ドイツと同盟、ロシアやフランスとの対立が深まる |
| 1889年 | マイヤーリンク事件により皇太子ルドルフ死去 |
| 1898年 | 皇妃エリーザベトがジュネーブで暗殺される |
| 1908年 | ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合 |
| 1914年 | サラエボ事件により甥で跡継ぎのフランツ・フェルディナント死亡 第1次世界大戦が勃発 |
| 1916年 | 86歳で崩御 |
❖時代背景:ナショナリズムが台頭するヨーロッパ――近づく帝国の終焉
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が統治したのは、1848年から1916年。
68年におよぶ在位期間は、ヨーロッパが劇的に変貌した時代と重なります。
この時代のキーワードは「ナショナリズム(民族主義)」。「同じ民族によってひとつの国家をつくる」という考え方がヨーロッパ各地に広がり、独立運動が盛んになった時代です。
19世紀半ばからヨーロッパ全土に広まったこの思想は、ドイツやイタリアの統一運動を生み出す一方、多くの民族をひとつの帝国にまとめていたオーストリアにとっては、内側から帝国を揺さぶる脅威でもありました。
1859年のイタリア独立戦争、1866年のプロイセンとの戦争により、オーストリアは北イタリアの領土を失います。窮地に立ったフランツ・ヨーゼフ1世は統治体制を立て直すため、帝国内で最も力を持つハンガリーをオーストリアと対等な地位に引き上げ、「オーストリア・ハンガリー二重帝国」を発足させました。
しかしこの決断は、新たな火種をまきます。「ハンガリーだけ特別扱いなのか」と、帝国内の他の民族も自治や独立を求めて声を上げ始めたのです。
さらに緊張を高めたのが、バルカン半島の動きでした。「ヨーロッパの火薬庫」(後述)とも呼ばれたこの地域では、各民族が独立や領土拡大を競い合っていました。
1908年、フランツ・ヨーゼフ1世はこの地域のボスニア・ヘルツェゴヴィナを帝国に正式併合します。しかし、「同じ民族はひとつの国家に」というナショナリズムの波に乗り、セルビアはこの併合に激しく反発しました。セルビアの後ろ盾であったロシアも対立姿勢を強め、バルカン半島は一触即発の状態に陥りました。
1914年、セルビアの青年によってオーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺されると(サラエボ事件)、第1次世界大戦が勃発します。オーストリア対セルビアの争いが、同盟関係にあった各国を巻き込んだためです。
社会の変化も急速でした。産業革命によって工場が立ち並び、中産階級が力をつけ、電話や自動車が登場する新しい時代が到来していました。しかし皇帝自身は自動車や電話を嫌い、質素な生活を送り、古い宮廷儀式を重んじる「古き良き世界の君主」として、君臨し続けました。

若き日のフランツ・ヨーゼフ1世(画像出典:Wikimedia Commons)
❖フランツ・ヨーゼフ1世の生涯と功績
民族主義の嵐が吹き荒れる19世紀半ば、若くして皇帝の座についたフランツ・ヨーゼフ1世。68年にわたる治世は、苦難の連続でした。
列強諸国との外交折衝だけでなく、帝国内の多様な民族が求める自治や独立をどう調停するか——その難題に、生涯をかけて向き合い続けました。
最愛の家族が運命の魔の手に奪われ、それでも真摯に皇帝としての務めを果たし、第1次世界大戦のさなかに生涯を終えた皇帝。
その人生を追ってみましょう。

肖像画家として有名なウィンターハルターが描いたフランツ・ヨーゼフ1世(画像出典:Wikimedia Commons)
幼少期~少年期:母ゾフィー大公妃の期待を一身に背負って
フランツ・ヨーゼフ1世は1830年、ウィーンに生まれました。幼いころから、母ゾフィー大公妃による厳格な帝王教育を受けて育ちました。バイエルン王女であったゾフィー大公妃は非常に気丈な女性で、「ハプスブルク家の唯一の男子」と称されるほど宮廷内に強い影響力を持っていました。
フランツ・ヨーゼフ1世は、皇帝の息子ではありません。誕生時、皇帝であったのは叔父のフェルディナント1世でした。フェルディナント1世は非常に病弱で、子どもがいませんでした。フランツ・ヨーゼフ1世の父は、フェルディナント1世の弟フランツ・カール大公。彼も政治的な関心が薄く、皇帝になる意思は持っていませんでした。
こうした事情から、皇帝の甥にあたるフランツ・ヨーゼフ1世は、幼いころから自らの地位を強く意識して育ったといわれています。
ドイツ語、フランス語、イタリア語、ハンガリー語、チェコ語を駆使し、多民族が共存するオーストリア帝国の未来の皇帝として成長しました。

母ゾフィー大公妃と幼いフランツ・ヨーゼフ1世(画像出典:Wikimedia Commons)
青年期:波乱の年の皇位継承から夢のような結婚
叔父フェルディナント1世の退位を受けて、フランツ・ヨーゼフ1世が皇帝となったのは1848年。18歳の皇帝が即位した年、ヨーロッパは事件が多発していました。
フランスでは二月革命が勃発。ナポレオン1世の甥のルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)が大統領となります。
ドイツとオーストリアでは、三月革命が勃発。ウィーンとベルリンを中心に、自由の拡大を求める民衆の蜂起が続きました。
こうした情勢を受けて、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は自由主義的改革を約束して革命派に譲歩。ハンガリーとチェコでは、独立戦争が勃発しオーストリア軍と抗争を始めていました。
オーストリア帝国の支配下にあった北イタリアでも革命運動が起こり、イギリスではマルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を発表。
若き皇帝は就任早々、こうした情勢と対峙する必要に迫られました。
その激務の合間で生まれたのが、おとぎ話のような結婚でした。
母ゾフィーは姪のバイエルン公女ヘレーネを皇妃にともくろんでいました。ところがフランツ・ヨーゼフ1世は、お見合いの席でヘレーネの妹のエリーザベト(シシィ)に一目惚れ。

「夢見るような瞳が美しい」といわれた10代のエリーザベト(シシィ)(画像出典:Wikimedia Commons)
それまでは母のいいなりだった皇帝が、生涯で唯一わがままを通した瞬間でした。
母ゾフィー大公妃はフランツ・ヨーゼフに押し切られる形で結婚を了承し、1854年4月24日、ウィーンのアウグスティーナー教会で盛大な結婚式が挙行されました。
エリーザベトは当時16歳。フランツ・ヨーゼフ1世と美男美女のカップルとなり、国民を熱狂させました。
フランツ・ヨーゼフ1世関連のコインとして高い人気を誇る「雲上の女神」は、皇妃エリーザベトをモデルにしているといわれています。

フランツ・ヨーゼフ1世の肖像画と一対になるようにウィンターハルターが描いた皇妃エリーザベト(画像出典:Wikimedia Commons)。
治世初期〜中期:相次ぐ戦火と敗北、そして「二重帝国」の誕生
即位直後に起こったハンガリーの革命は、ロシアの助力を得て鎮圧したフランツ・ヨーゼフ1世。軍隊に支えられた絶対君主として成功したものの、1859年のイタリア独立戦争では敗北。北イタリアのロンバルディア地方を失いました。
1866年には、プロイセンとの戦争がはじまります(普墺戦争)。
この戦争は、神聖ローマ帝国解体後に創立されたドイツ連邦の覇権をめぐり、オーストリアとプロイセンが争ったものです。軍事大国プロイセンに敗れたオーストリアは、国際的な威信の低下を免れませんでした。
敗北を受けて、フランツ・ヨーゼフ1世は帝国の再編を決意。帝国内で強い勢力を持つハンガリー人の支持を固めるため、ハンガリー王国をオーストリアと同等の地位に引き上げました。この結果生まれたのが、オーストリア・ハンガリー二重帝国です。
大胆な改革によって、オーストリアとハンガリーは20世紀初頭まで協調して帝国を維持することに成功しました。
とくに皇妃エリーザベトはハンガリーをこよなく愛し、ハンガリー人から贈られたゲデレー城に長期滞在することも珍しくありませんでした。二重帝国の誕生には、エリーザベトがフランツ・ヨーゼフ1世にハンガリーへの理解を促したことも、一因だったといわれています。

フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー王として戴冠した際のエリーザベト(画像出典:Wikimedia Commons)
治世中期:相次ぐ家族の悲劇――孤独な皇帝の素顔
皇帝として苦悩の日々が続く中、私生活でも悲劇が繰り返されます。
フランツ・ヨーゼフ1世の母ゾフィー大公妃と、妻エリーザベトは嫁姑の関係でした。
宮廷儀礼を重んじる母ゾフィー大公妃は自由奔放なエリーザベトを嫌い、育児にも積極的に介入。窮屈な宮廷生活に耐えかねたエリーザベトはやがてウィーンを離れ、ヨーロッパ各地を転々とする遍歴の旅を続けるようになります。
エリーザベトの繊細な精神と自由への強い欲求を誰よりも理解していたフランツ・ヨーゼフ1世は、自身は孤独に耐え、ただ愛情深く見守り続けました。
1867年、フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー王としての戴冠式の祝賀のさなか、弟マクシミリアン大公がメキシコで処刑されたという知らせが届きます。ナポレオン3世の後押しでメキシコ皇帝に即位していたマクシミリアンは、共和派軍に捕らえられ銃殺。公妃シャルロッテはヨーロッパに戻ったものの、精神に異常を来してしまいます。
1889年には、皇太子ルドルフがウィーン近郊のマイヤーリンクにおいて、男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとともに命を絶ちました。心中か暗殺か、真相は今も謎に包まれています。唯一の息子を失った皇帝夫妻の悲嘆は深く、エリーザベトの放浪癖はますますひどくなっていきました。
悲劇はさらに続きます。
1898年、旅先のジュネーブで、皇妃エリーザベトがイタリア人無政府主義者の手によって暗殺されました。エリーザベトを愛し、どんなわがままも受け入れてきたフランツ・ヨーゼフ1世は、「この世ではあらゆる不幸が私を襲う」とつぶやいたと伝えられています。

マイヤーリンク事件で亡くなった皇太子ルドルフの死を悼む一家(画像出典:Wikimedia Commons)
治世後期:帝国崩壊の予兆と世界大戦の軍靴
私生活での悲劇が続くなか、フランツ・ヨーゼフ1世は一日も欠かさず執務に向かい続けました。軍人らしい質素な生活を送り、古い宮廷儀式を重んじ、変わりゆくヨーロッパの「不死鳥」と呼ばれることもありました。
晩年のフランツ・ヨーゼフ1世を悩ませたのは、後継者問題です。息子のルドルフ皇太子亡き後、皇位継承者となったのは甥のフランツ・フェルディナント大公でした。彼はフランツ・ヨーゼフ1世の大反対を退けて、下級貴族の娘と貴賤結婚。皇帝との対立を深めました。
そのフランツ・フェルディナント大公も、1914年、妻とともにサラエボで暗殺されます(サラエボ事件)。これが引き金となり、第1次世界大戦が勃発しました。
再び後継者を失った84歳の老皇帝は、大戦の渦中に立たされることになります。戦時下でも執務を続けたフランツ・ヨーゼフ1世は1916年、肺炎のため86歳で崩御。跡を継いだのは、フランツ・ヨーゼフ1世の弟の孫カール1世でした。
オーストリア帝国の解体は、フランツ・ヨーゼフ1世崩御からわずか2年後のこと。ハプスブルク家の栄光は、フランツ・ヨーゼフ1世の亡骸とともにその棺に納められたのです。

棺に納められたフランツ・ヨーゼフ1世(画像出典:Wikimedia Commons)
❖フランツ・ヨーゼフ1世をより深く知るための意外な事実!
相次ぐ苦難や悲劇も乗り越えて、68年もの長きにわたって君臨したフランツ・ヨーゼフ1世。
厳格な皇帝をよりよく知るためのエピソードをご紹介します。

1853年に起きた皇帝暗殺未遂事件を描いた絵。犯人はハンガリーの民族主義者でした。このときから皇帝はハイカラー(高襟)を常時着用するようになりました(画像出典:Wikimedia Commons)。
衣服の「ハイカラー」に隠された秘密
フランツ・ヨーゼフ1世は、ハイカラー(高襟)の衣服を身に着けるのが常でした。これは流行や好みだけではなく、こんなエピソードが理由になっています。
1853年、彼はハンガリーの民族主義者に首をナイフで刺されるという暗殺未遂事件に遭遇。たまたま軍服の襟が非常に硬く頑丈だったため、刃が跳ね返されて一命を取り留めたといわれています。
この事件を機に、フランツ・ヨーゼフ1世は首を露出させない高い襟の服を愛用するようになったという説があります。
皇帝とは思えないほど質素でストイックな生活
フランツ・ヨーゼフ1世は、皇帝でありながら驚くほど規則正しい生活を守っていました。
毎朝起床は4~5時、新婚時代でさえこの風習は変わらず、早朝から執務室にこもって仕事に励みました。娯楽に興じることを自らに禁じ、楽しみといえば家族との食事や語らいであったと伝えられています。
大好物であったという牛肉の煮込み料理(タフェルシュピッツ)もごく庶民的な料理で、毎日同じ料理でもいとわなかったそうです。
妻公認の愛人がいた?
フランツ・ヨーゼフ1世は、一目惚れから始まった妻エリーザベトへの愛を生涯貫いた皇帝です。しかし自由を愛するエリーザベトはウィーンを離れがちで、孤独な夫をそばで支えることができませんでした。
そこでエリーザベト自身が1885年頃に夫に紹介したのが、女優のカタリーナ・シュラットです。フランツ・ヨーゼフはシェーンブルン宮殿のすぐそばに彼女の邸宅を用意し、朝の散歩がてら訪ねてはお手製の朝食と会話を楽しんだといわれています。
この友情はフランツ・ヨーゼフが亡くなるまで約30年にわたって続きました。

カタリーナ・シュラットと散歩をする晩年のフランツ・ヨーゼフ1世(画像出典:Wikimedia Commons)
❖最後に
多民族によって構成された大帝国の統治を担い続けたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。ナショナリズムが台頭する中で帝国の再編を行い、ハプスブルク家の威信を死守しました。
愛妃エリーザベトや皇太子ルドルフの死という悲劇を乗り越えて、厳格な皇帝として歩んだ彼の人生は、今もなお私たちを惹きつけてやみません。
フランツ・ヨーゼフ1世の死とともに、栄光あるハプスブルク家の帝国も終焉を迎えました。
その人生からは、世紀末ウィーンの憂愁と優美が伝わってきます。