フランス絶対王政の頂点で輝いた太陽王:ルイ14世

フランス絶対王政の頂点で輝いた太陽王:ルイ14世


スタッフのひとことナビ
A.Harada(コイン歴3年)
今回は、「太陽王」の名で知られるルイ14世についてのコラムなんですね。
ヴェルサイユ宮殿や豪華な宮廷文化のイメージが強い人物ですが、その輝きの裏には、幼い頃の不安や絶え間ない戦争、そして王として背負い続けた重い責任も見えてきます。
なぜルイ14世がこれほどまでに強い王権を求めたのか、その時代の空気とともに感じながら読み進めてみると、また違った姿が見えてくるかもしれません。



「朕は国家なり」。
有名なそのフレーズの通り、フランスの絶対王政の頂点で輝いたルイ14世。4歳で即位したルイ14世は、72年にわたってフランスを統治。豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿を造営し、フランスをヨーロッパの中心へと導きました。

自らを太陽になぞらえ神格化することで、フランス国内の求心力を強めたルイ14世。抜群の外交力も発揮し、国内外でフランス王の権威を高めることに成功しました。

ルイ14世の時代、フランスはヨーロッパの文化の中心となり、後世にも大きな影響を与えます。

西洋史でもっとも知名度が高いフランス王ルイ14世の生涯を追ってみましょう。


戴冠式衣装を着たフランス国王ルイ14世(画像出典:Wikimedia Commons



ルイ14世の人生概略

1638年 フランス王ルイ13世の長男として誕生
1643年 父ルイ13世の死去により4歳で即位
1648年~1653年 王権強化に反発する貴族たちによりフロンドの乱が勃発
ルイ14世はパリを離れ避難
1654年 15歳を迎えランス大聖堂で戴冠式を挙行
1660年 スペイン王女マリア・テレサ(フランス語ではマリー・テレーズ)と結婚
1661年 宰相マザランの死に伴い親政を開始
1672年~1678年 オランダ戦争勃発
経済大国オランダに挑み領土を拡大
1682年 ヴェルサイユ宮殿へ宮廷を移動
1683年 マントノン夫人と秘密結婚
1688年~1697年 アウグスブルク同盟戦争勃発
神聖ローマ帝国ファルツ公領相続をめぐってイギリス・オランダ・神聖ローマ帝国などの反仏同盟と戦いストラスブール領有権を獲得
1701年~1714年 スペイン継承戦争
スペイン・ハプスブルク家の断絶に伴い孫のフェリペ5世をスペイン王位につける
1715年 史上最長の在位期間を経て76歳で崩御
曾孫のルイ15世が王位を継承



時代背景:栄光と戦火が交差した太陽王の72年

「我が最大の情熱は、栄光への愛」――ルイ14世は、30歳の時にそう書き残しています。自らの全能性を国内外に巧みにアピールすることで、中央集権化を推し進め、絶対王政を確立したのです。

ルイ14世が統治した17世紀後半から18世紀初頭、フランスは権力と文化の両面で黄金期を迎えました。都市国家が群立していたイタリア、領邦の寄せ集めだったドイツと比較すると、フランスは早くから集権国家として成長していました。その完成形が、ルイ14世による絶対王政です。

4歳で即位したルイ14世は、22歳から親政を開始。「朕は国家なり」の言葉通り、王権は神から授かったものという理念(王権神授説)のもと、独自の政策を行いました。

絶対王政確立の舞台となったのが、豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿です。部屋数が700もあるヴェルサイユに、貴族たちを集め厳格な宮廷儀礼(いわゆるエチケット)を徹底させました。

また、演劇や美術、科学などのアカデミーを次々と創設し、フランスをヨーロッパ文化の最先端へと押し上げました。現在「芸術の国フランス」と呼ばれる礎は、このルイ14世の時代に築かれたといっても過言ではありません。

国内政策として、財務総監コルベールのもと重商主義政策を推進し、国内産業の保護と輸出拡大によって経済力を蓄えました。

その一方で、領土拡大を目指す対外戦争を繰り返します。フランドル戦争、オランダ戦争、アウグスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争などの大戦は、いずれも莫大な戦費を生み、フランスの財政を深刻に圧迫しました。

ルイ14世自身、親政の54年間中、31年間を占めた戦争を悔い、曾孫のルイ15世には「戦争をし過ぎないように」という遺言を残しています。

栄光と矛盾に満ちたルイ14世の治世が土壌となり、18世紀の啓蒙主義が花開き、やがてフランス革命へとつながっていきます。

ルイ14世の主な対外戦争

フランドル戦争:1667~1668年
義父のスペイン王フェリペ4世の死に伴いスペイン領フランドルの領有権を主張して起こした戦争。

オランダ戦争:1672~1678年
ルイ14世が経済大国オランダの覇権に挑んだ侵略戦争 。

アウグスブルク同盟戦争:1688~1697年
ファルツ家断絶に伴い弟妃の領有権を主張して起こした戦争。

スペイン継承戦争:1701~1713年
スペイン・ハプスブルク家の断絶に伴い、スペイン王位を巡ってハプスブルク家との間で起こった戦争。


15歳で戴冠したルイ14世の肖像(画像出典:Wikimedia Commons



ルイ14世の生涯と功績

フランス王ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュが、結婚23年目にして得た「奇跡の子」、それがルイ14世でした。
生まれたときから「選ばれし者」として帝王学を学び、76歳で崩御するまで、絶対的な権力を持つ王として君臨したルイ14世。

後世の君主たちにも影響を与えたその人生を追います。


愛情深い賢母アンヌ・ドートリッシュと幼いルイ14世(画像出典:Wikimedia Commons



幼少期~少年期:「奇跡の子」、4歳でフランス王に

ルイ14世は1638年、フランス王ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュの長男として生まれました。母アンヌはスペイン王女で、14歳で王妃となってから実に23年後の懐妊。子どもを持つことを諦めていた王夫妻にとってはまさに「奇跡の子」でした。

父ルイ13世の死に伴い、ルイ14世は4歳で即位します。母アンヌは、当時の貴族女性には珍しいほど愛情深く、ルイ14世を慈しみました。宰相マザランの薫陶を受け、帝王学を授かります。

生まれながらに「神の贈り物(Dieudonne)」と呼ばれて育ったこうした環境が、ルイ14世の王権神授説を確固たるものにしました。



少年期~青年期:フロンドの乱の衝撃と親政の開始

ルイ14世が10歳になるころ、パリ市民や貴族たちが重税に反発した「フロンドの乱」が勃発します。命の危険を感じたルイ14世は夜の闇に紛れてパリを脱出、各地を転々とする逃亡生活を余儀なくされました。

フロンドの乱は内部分裂により鎮圧されましたが、この屈辱的経験が、絶対王政を築く大きな原動力になったといわれています。

1659年、戦争状態であったスペインとピレネー条約を結び、翌年、スペイン王女マリー・テレーズ(スペイン名はマリア・テレサ)と結婚。
1661年に宰相マザランが死去し、23歳のルイ14世の親政が始まりました。


フロンドの乱の勝利者として描かれたルイ14世(画像出典:Wikimedia Commons



壮年期:「太陽王」としての栄光とヴェルサイユ宮殿の建設

親政を開始したルイ14世は、自らを万物の中心である「太陽」になぞらえ、王の神格化を推し進めました。

内政においては、有能な財務総監コルベールを登用。重商主義政策を展開し、国内産業の保護や貿易の拡大、さらには東インド会社の創設などを次々と成功させていきます。フランスを、ヨーロッパ随一の経済大国へと押し上げるという大きな功績を残しました。

その経済力と絶対的な権力の結晶として造営されたのが、豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿です。1682年、ルイ14世は宮廷をパリから南西約20kmに位置するヴェルサイユ宮殿へ移しました。

ヴェルサイユ宮殿の建設は、単なる贅沢ではありませんでした。部屋数が700もあるこの巨大な宮殿に、かつて自分を脅かした地方の有力貴族たちを強制的に住まわせたのです。彼らに「起床から就寝にいたるまでの厳格な宮廷儀礼」を課し、王の身の回りの世話をすることが最大の栄誉であると錯覚させました。貴族たちを宮廷の中に囲い込むことで、反乱の芽を完全に摘み取ることに成功したのです。

文化面での功績も輝かしいものがありました。
フランス語アカデミー、王立絵画・彫刻アカデミー、王立科学アカデミーなどを相次いで創設、モリエール、ラシーヌ、コルネイユらの文学者を庇護しています。

フランスの文化はヨーロッパ各国の宮廷で模倣され、敵国のプロイセンやオーストリアでもフランス語が上流社会の共通語となりました。


ヴェルサイユ宮殿建設中の様子(画像出典:Wikimedia Commons



熟年期~晩年:卓越した外交手腕による領土拡大、そして戦争による疲弊

絶対的な権威を確立したルイ14世の野望は、領土拡大にも向けられました。

卓越した外交手腕と強力な常備軍を武器に、アウグスブルク同盟戦争(ファルツ戦争)や、スペイン継承戦争など、大国を相手どった長期にわたる戦争を次々と仕掛けます。

狙い通りにフランスは領土を拡大し、スペインの王位に自身の孫(フェリペ5世)を就けるなど、国内外で「太陽王」の権威を誇示しました。

しかし栄光の裏では、膨大な戦費が国庫を圧迫。追い打ちをかけたのが、1685年の「ナントの勅令の廃止」です。この勅令は、カトリックとプロテスタント(ユグノー)の血みどろの宗教内戦を収拾するため、アンリ4世が1598年に発布したものでした。

ルイ14世はカトリックによる信仰統一が王権強化につながると考え、これを廃止します。しかし、商工業の中核を担っていたユグノーの多くが信仰の自由を求めて国外へ脱出する結果に。その数、およそ20万人ともいわれています。熟練した職人や商人を一度に失ったフランスの産業は大きな打撃を受けたのです。

さらに私生活でも不幸が続きました。
王妃マリー・テレーズは44歳で早世し、長男ルイは49歳で父に先立ち、その息子ブルゴーニュ公ルイも29歳で世を去りました。後継者を次々と失ったルイ14世は、晩年を深い孤独の中で過ごします。子どもの養育係だったマントノン夫人と秘密結婚し、信仰心篤い彼女の影響もあってか、過去の戦争を悔いることも多かったといわれています。
1715年、ルイ14世は76歳で崩御。72年にわたるフランス史上最長の治世は幕を閉じ、王位は5歳の曾孫ルイ15世へと受け継がれました。


武装姿のルイ14世(画像出典:Wikimedia Commons



ルイ14世をより深く知るための意外な事実!

西洋史のなかでも抜群の知名度があり、歴史に大きな足跡を残したルイ14世。76年の生涯には、意外なエピソードも多数あります。

ルイ14世をより深く知るための意外な事実をご紹介します。


ルイ14世の母アンヌ(左)とルイ14世の長男ルイを抱く王妃マリー・テレーズ。王妃は「王とココアが私の二大情熱」と語るほどルイ14世を愛し、ココアを愛飲しました(画像出典:Wikimedia Commons)。



太陽王のピュアな初恋、青春との決別

1658年の夏、戦場で感染症に倒れ生死の境をさまよったルイ14世。奇跡の回復を誰よりも喜び、涙を流して出迎えたのが、宰相マザランの姪マリー・マンシーニでした。このとき20歳の王の心に、純粋な初恋の炎が灯ります。

「王位を捨ててもいい」とまで周囲に宣言したほどの熱愛でしたが、1659年にフランスとスペインが長年の戦争を終結させるために結んだピレネー条約によって、2人は引き裂かれることになります。

ピレネー条約では両国の和解を確実にするため、王家同士の婚姻が和平条件として盛り込まれていました。 マザランは姪をイタリア貴族のもとへ嫁がせ、ルイ14世はスペイン王女マリー・テレーズとの政略結婚に臨むことになりました。

約1年間の短い恋でしたが、後に数多くの愛人を持つことになる「太陽王」にとって、最も心が純粋に燃え上がった唯一の初恋でした。


ルイ14世の初恋の人マリー・マンシーニ。ルイ14世はマリーとの結婚を望みましたが周囲の反対で断念しました(画像出典:Wikimedia Commons)。



「太陽王」の呼び名はバレエから?鍛えられた曲線美との関連

ルイ14世は、バレエに深く魅せられた王でした。「太陽王」という呼称も、バレエに関連しています。

1653年2月、フロンドの乱の鎮圧を祝う宮廷バレエで、14歳のルイ14世は太陽神アポロンに扮して登場しました。金糸の衣装をまとい、光輝く太陽を体現したその姿は観衆を圧倒し、これが「太陽王」という異名の由来となったといわれています。
ルイ14世は1661年に王立ダンスアカデミーを設立し、バレエを文化として庇護しました。自身もバレエを習い、立ち居振る舞いの美しさを身につけたといわれています。
またバレエで鍛えた美しい脚線美を誇示するため、ルイ14世はタイツをはき、ハイヒールを愛用しました。身長が160cmほどしかなく、王の威厳を保つためにかつらで髪を盛り上げ、ハイヒールで背を高く見せることに腐心したといわれています。
コインや肖像画に刻まれた堂々たる姿の裏に、そのような人間的な一面が隠されていたのです。


太陽神アポロンに扮するルイ14世。バレエはルイ14世の趣味で、鍛えられた脚は晩年まで自慢の種でした(画像出典:Wikimedia Commons)。



チョコレートとシャンパンの普及に影響を与えたルイ14世

ルイ14世は大変な健啖家であったと伝えられています。王の食事は、廷臣たちが見守る中で行われるデモンストレーションでした。1回の食事で、スープ4種、キジ、山鳥、ハム、羊肉の煮込み、サラダ、菓子、果物、ゆで卵などを完食したという記録が残っています。

フランス宮廷にチョコレート文化をもたらしたのは、南米に植民地を持つスペインから嫁いできた王妃マリー・テレーズでした。マドリードから専任のチョコレート係の侍女を連れてきたほどの愛好家で、愛人の多い夫に放っておかれる寂しさをチョコレートで紛らわせていたとも伝えられています。当時のチョコレートは砂糖を溶かして飲むスタイルでした。

ルイ14世はチョコレートを愛しただけではなく、ビジネスとして展開。国内におけるチョコレートの流通と普及に深く関与しました。 1659年には特定の商人に国内初の「チョコレート製造・販売の独占権」を認める王令を発布して市場を管理。

さらにフランス領西インド諸島の植民地でカカオ豆の栽培を命じるなど、独自の供給網を整えてチョコレートをヴェルサイユ宮廷に不可欠な最高級のステータスへと押し上げたのです。 

シャンパンもルイ14世が愛した飲み物でした。ちょうどこの時代、ベネディクト会修道士ドン・ペリニョンがシャンパーニュ地方の修道院でシャンパンを生み出します。

主治医が「シャンパンは万能薬」としてルイ14世に勧めたため、ヴェルサイユの豪華な宴の場にシャンパンが欠かせないものとなりました。

偶然にも、ドン・ペリニョンは太陽王と同じ1638年に生まれ、同じ1715年に世を去っています。


1660年、結婚当時のルイ14世とスペイン王フェリペ4世、そしてマリー・テレーズ(画像出典:Wikimedia Commons)。



最後に

72年という史上最長の在位期間を誇り、絶対王政の頂点に立ったルイ14世。
幼少時から選ばれし者として教育を受け、ヴェルサイユ宮殿を舞台に王権の強化に努めました。

領土拡大だけではなく、経済や文化を庇護し、フランスの国力を向上させたことにより、現代まで続く「芸術の国」のイメージの確立に成功しました。

各国の宮廷の模範ともなったルイ14世の振舞いや存在感は、今も燦然たる輝きを放っています。

 


スタッフのひとことコメント
Mina Yoshii(コイン歴2年)
ルイ14世というと、どうしても豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿や「朕は国家なり」という言葉が先に思い浮かびますが、その長い人生をたどると、一人の王として抱えていた葛藤や孤独も伝わってきますね。

フランスをヨーロッパの中心へ押し上げた華やかな功績と、その代償として積み重なった戦争や財政負担の両方があってこその時代だったのだと感じました。
次にルイ14世のコインや肖像画を見るときは、まばゆい栄光だけではなく、その輝きを支え続けた長い歳月にも思いを巡らせてみたくなりますね。

 

 

参考文献

小学館 日本大百科全書「ルイ14世」「プファルツ戦争」「絶対主義」
平凡社 世界大百科事典「ルイ14世」「ファルツ戦争」「絶対王政」 
岩波 世界人名辞典「ルイ14世」 
上智大学 新カトリック大事典「ルイ14世」 
日本国語大辞典「ナントの勅令」 
中野京子『絵画で読み解くブルボン王朝12の物語』2010年 光文社
Britannica|Louis XIV, king of France
THE PERFUME SOCIETY|Louis XIV
TRECCANI|Luigi XIV re di Francia
FATTI PER LA STORIA|L’assolutismo monarchico di Luigi XIV di Francia
History Snob|The Ghoulish Secret King Louis XIV
Artearti|Per il Re Sole
SKEGGVALDR|Storia sanitaria del “Re Sole”
Au Roi Soleil|The Sun King and chocolate
CHATEAU DE VERSAILLES|Hot Chocolate in Versailles

 

一覧に戻る